黒筆司
──ウェルクエント・リブロ・ラクーザ。
それは「ラクーザ」という意味のある名を持つ者だ。
あらゆる情報、知識、思想、記述といった様々なものを記録として、己の身に刻み続ける役目を教団が始まった頃から担っている一族、ラクーザ家。
それゆえに、未知なるものへの探求心や追究心は人一倍に大きく、そして歯止めが効かない場合もあるらしい。
また、「リブロ」という中間名には「書物」という意味が込められており、歴代のラクーザ家の当主が受け継ぐ名前となっていた。
ウェルクエント・リブロ・ラクーザは16歳という若さでラクーザ家の当主であり、そして黒筆司という役職に就いている。
情報通のミレットいわく、彼の内面は言わば、天才に近い類の人間らしい。
そんな彼は、アイリスがよく通っている「水宮堂」の店主であるヴィルヘルド・ラクーザとは戸籍上の兄弟なのだという。
元々、ウェルクエント・リブロ・ラクーザはヴィルの従兄弟だったらしいが、彼が幼い頃に養子としてラクーザ家本家が引き取ったと聞いている。
ラクーザ家で何があったのかはよく分からないが、ラクーザ家の本家の長子として生まれたヴィルは早々と次期当主という役目を放棄し、彼の祖父が営んでいた水宮堂の店主となったようだ。
それにより、ウェルクエントは自動的に次期当主となり、彼が教団へと入団したと同時期にラクーザ家の当主の座を受け継いだことは全てミレットから聞かされた話である。
もちろん、アイリスにはウェルクエントとの面識は全くない。
同じ教団内に居たとしても、彼は黒筆司という特殊な役職に就いているため、あまり表立った場所には出てこないのだ。
そのため、彼の姿を知る者の方が少ないのだという。
「ウェルクエント・リブロ・ラクーザ直々の要望らしい。……あいつの立場がそれなりに高い上に、こちらとしては色々と交渉している事柄が多いせいで、借りを作ってしまっている厄介な奴でね。まぁ、人間的な意味ではまだましな部類なんだろうが……」
ブレアは面倒だと言わんばかりに深い溜息を吐いてから大きく舌打ちした。
「今回の件において、詳しく聞き取りしたいから是非、証人として会議に参加して欲しいと頼んで来たんだよ。……ちなみに、お前達がオスクリダ島で一緒に行動していた魔物討伐課のユキ・イトウとリアン・モルゲンも参加するようにと要求しているらしい」
「イトとリアンも……」
「ライカは……ライカには、参加の要求は来ていないのでしょうか」
アイリスは縋るような表情で、ブレアの顔を見る。彼女は首をゆっくりと横に振っていた。
ウェルクエント・リブロ・ラクーザからライカへの会議に参加するようにとの申し出はなかったようだ。そのことについ、安堵の溜息を吐いてしまう。
「……あいつは悪意がない純粋な知的好奇心の塊みたいな奴だから、色々相手にしにくいんだよな……」
どうやら、ブレアは例の黒筆司とは知り合いらしい。普段ならば向かうところ敵無しであるブレアだが、彼女にも苦手で接しづらい人間はいるようだ。
珍しいなと思う反面、どうしてそこまでウェルクエント・リブロ・ラクーザのことを苦手に思っているのだろうか、という疑問がふわりと浮かんでくる。
アイリスの表情に今、心の中で思い浮かべていた呟きを察したのか、ブレアはどこか微妙な表情を浮かべてから頷き返してくる。
「……実は、ウェルクエント・リブロ・ラクーザは以前から、アイリスとクロイドに接触したがっているんだ」
「え?」
どういうことだろうかとアイリス達は同時に首を傾げてから、眉を中央へと寄せた。
「二人はウェルクエントにとって、未知の情報の塊だからな。だからこそ、接触したがっていたが、私が後見を務めている以上、簡単には手が出せない状態なんだ。……まあ、二人に手を出さないように色々と裏で交渉しているからね。普段の生活の中で、彼が接近してくることなんて、一度もなかっただろう?」
「え、ええ……」
「それどころか、俺はたった今、黒筆司を務めている人がヴィルさんと同じ名前だと気付きましたよ……」
クロイドもヴィルとウェルクエントが同じラクーザ家だと気付いたようだ。その言葉を肯定するようにブレアは一度、頷いていた。
「……つまり、その黒筆司の方が私達に接触しようとしていたのをブレアさんはずっと防いでいてくれたということでしょうか」
アイリスがおずおずと訊ねるとブレアは曖昧な表情で苦笑していた。
「過保護だと思うだろう? ……だが、教団のため、記録保管のためにお前達が持っている情報を提供するようなことはしたくはなかったんだ。……もちろん、向こうは魔犬について知っている情報を対価として提供しようとしていたが、そこは私の一存で決めていいものではないから断らせてもらったんだ」
「っ……」
アイリスが長年追っている、魔犬の情報を知っているかもしれない。その言葉に、自分の心の奥で何かが沸き立った感触がした。
「……以前のアイリスだったならば、すぐにお前自身が持つ情報を提供してでも、魔犬の情報を得ようとしていただろうな。だからこそ、彼と接触させることを避けたかったんだ。あの頃のアイリスは今よりずっと尖っていたから、冷静になって欲しかったんだ。……もちろん、目撃情報が少ない魔犬に関する深いことをウェルクエントが持っているとは限らないし、一時的に距離を取っていたんだよ」
「……」
ウェルクエントが望む、アイリスの情報とは一体何だろうか。自分は特に重要な情報を持って、生きているわけではない。
それでも一年前の自分が、黒筆司としてあらゆる情報を持っているウェルクエントが接触を望んでいると聞けば、すぐにでも動いていただろう。
自分を貶めるような言い方だが、あの頃の自分は確かに見境がなかったのだ。他のことに対しては冷静であっても、魔犬に関することには冷静にはなれなかったのは間違いない。
それが今では、ちゃんと自分の思考で考えられるようになっているのは、ずっと支えてくれていたブレアと共通の想いを持っているクロイドの存在が大きいからだろうとアイリスは密かに二人に感謝していた。
新連載で「雨謳う姫は黄昏を望む」というお話を始めました。
元は公募に出していて、最終選考まで残りましたが残念ながら落ちた作品となっております。
もし、ご興味がある方がいれば、こちらもどうぞ宜しくお願い致します。




