渇望する理由
エレディテルはワインの香りと色を楽しんだ後、ゆっくりと赤い液体を口の中へと含んで行く。
鼻先に掠めたのはむせ返りそうなほどに強い酒の香りと、そして──血の匂いだ。
エレディテルが飲んでいる飲み物はただの赤ワインではない。赤ワインに魔力持ちの人間の血を混ぜたものを飲んでいるのだ。
「……年代物で良い酒のはずだが、味覚がないとこういうところで少し勿体なさを感じるな」
そう言って、口の端から赤い雫が垂れそうになっていたものをエレディテルは舌で軽く舐めとった。
エレディテルは味覚を持っていない。
昔はちゃんと五感として備わっていたらしいが、彼自身の魔力が高すぎることが身体に影響して、成長するにつれて味覚が薄まっていったのだという。
また、その身にあらゆる魔法の実験を施したことで結果としては「味覚」という感覚だけが削げ落ちたまま戻ることはなかった。
そのため、どれほど不味いものを食べても味を感じないのだという。
だが、嗅覚は備わったままなので匂いを嗅ぎ、記憶の中の味を思い出しながら食事をしているのだろう。
ワインと共に他人の血を体内へと含んだエレディテルはしばしの間、黙り込んだ。
静かな時間が漂っているが、彼が口にした血液が持つ記憶と情報を魔法で読み取っているのだ。
それはセリフィアがよく行う魔法「心身接触」と似たようなものだ。この場合は手で触れたものから、その対象の記憶や情報を直接的に得ることが出来るものとなっている。
それよりもさらに奥深くの記憶を見ることが出来るのが、血液を直接的に体内へと取り込み、読み取ることが出来る「血宿りの記録書」という魔法だ。
その魔法を使い、血液を一滴でも舐めとれば、持ち主の記憶や情報だけでなく、その血液が現在まで繋がってくるにおいての過程──つまり、過去まで遡って覗き見ることが出来るという上級魔法の一つだった。
しかし、この魔法は表向きには使用する者が制限されている魔法でもあった。
セリフィアもたまにこの魔法を使用する時はあるが、味覚が備わっている自分には口の中が血の味で満たされることが苦痛に感じられるので、あまり好んで使う魔法ではない。
ただ、兄から命令されれば、仕方なく血液を口の中へと含めなければならないが。
「……ふむ。どの家も似たような魔法しか知らないか」
どこか残念がるようにエレディテルは呟き、そしてワイングラスの中身を一気に空にした。
今、彼と自分の身体の中には様々な人間達の記憶、情報が目録として構築されていた。
その中の一つ、一つを用いては必要な情報を抜き出し、エレディテルが行おうとしている密かな野望の軸として使用していた。
「……やはり、全てを構築するには古代魔法を知っている千年を生きる魔女の血と古きローレンス家の血が必要だな」
エレディテルの呟きにセリフィアは何度目か分からない唾を喉の奥へと飲み込んだ。
千年を生きる魔女とは嘆きの夜明け団の総帥であるウィータ・ナル・アウロア・イリシオスのことだ。
不老不死である彼女の記憶の中には、現代ではほとんど使われることはない古代魔法に関する情報が刻まれており、エレディテルはそんな彼女が持っている記憶を欲していた。
そして、古きローレンス家の血──まぎれもなくアイリスのことだ。このローレンス家の血の中にもエレディテルが求めている情報が入っているのだという。
エレディテルが抱いている野望は着々と進行している。
それはブリティオン王国の魔法使い達を巻き込んだものとなっており、たとえ身分がエレディテルよりも高くても、誰もそれを止めることは出来ないのだ。
何故なら彼は「ローレンスの再来」と言われている最も力が強い魔法使いだからだ。
彼の意に反することをしてしまえば消されると他の魔法使い達も理解しているため、己の命が危うくなっても従うしかないのだろう。
「……準備は整いつつある。──セリフィア、半月後に教団へと血を回収しに行って欲しいとハオスに伝えておいてくれ。こちらで管理している魔法使い達の半分の魔力を使ってくれて構わないと言えば、あいつも思う存分に力を発揮するだろう。……それと例の儀式は一か月後に行う。お前も実行日の一週間前から身を清めて、臨むように」
エレディテルが求めているものの最終段階はすでにそこまで来ている。
最後の仕上げで必要となってくるのはアイリスだが、その一歩手前の準備に必要なのは教団の総帥の血だ。
半月後、彼はその血をハオスに狩りに行かせるつもりのようだ。
そして、例の儀式──これこそが、エレディテルが長年望み、そして欲しかったものだ。
自分はその手伝いが出来るのだから、光栄に思うしかないのだろう。──たとえ、自分の身が最初からエレディテルの望みのためだけに捧げられる存在だったとしても。
「……はい、兄様」
だが、セリフィアは静かに頷き返すことしか出来ない。兄の言う言葉は絶対だからだ。
……僕は花の意志。花は意志を持ってはいけない。だから、兄様の言葉しか聞いてはいけない。
それだけが正しいことだと分かっている。それでも、脳裏に過るのはいつだってアイリスの笑顔だ。何故、いつも彼女の笑顔を思い出してしまうのだろう。
この耳は彼女の優しい声を求めている。
この手は彼女の熱に触れることを望んでいる。
この瞳は彼女が微笑む姿を刻みたがっている。
それなのに、アイリス・ローレンスという人間を渇望する理由が自分にはどうしても分からなかったのだ。
「……どうしたんだ、セリフィア」
「え?」
エレディテルがワイングラスに再び赤ワインを注ぎつつ、訊ねて来る。
「何か、考えていることがあるならば、遠慮なく言うといい」
そう言って、彼はどこか探るような瞳で自分を見つめて来る。例えるならば、獲物を狙う狼のような鋭い瞳で。
……駄目だ。兄様には覚られてはいけない。
余計なことを考えているとエレディテルに覚られてしまえば、自分の想像よりも悪い事態が起きてしまいそうな気がしてならなかった。
セリフィアはエレディテルに気付かれないように、全てを喉の奥底へと流し込んだ。
「いいえ、何も。……僕は兄様のものです。だから、兄様は兄様の思うように僕を動かして下さい」
にこりと笑みを浮かべて見せれば、エレディテルは小さく鼻で笑ってからワインを口へと含めていた。
どうやら、これ以上、心情を覚られずに済んだようだ。
「話は終わりだ。もう、下がれ」
「はい、兄様」
セリフィアはエレディテルへと深く頭を下げてから、踵を返し、部屋から出て行く。
後は兄から次の命令を告げられるのを待っていればいい。
……そう、僕は花だ。花は意志を持っていない。持ってはいけない。そこに存在を示しているだけでいいんだから。
無理矢理に自分を納得させる言葉を吐いてから、セリフィアはエレディテルの部屋から出て行く。
その足取りはいつまで経っても軽くはならなかった。
セリフィアが書斎から出て行ったのを横目で眺めつつ、エレディテルは一つ息を吐いた。
「……あいつの中に『心』を作ったのは失敗だったな」
エレディテルは呆れるような声色で一言呟き、ワインをあおるように飲んだ。
ワインの味は舌で慣らすように舐めても感じ取ることは出来ず、ただ鼻先に残る甘美な匂いだけがその場に漂っていた。




