懐疑的な感覚
ブリティオン王国 ローレンス家
書斎と呼ばれている部屋には大きな窓から月明りが射し込むだけで、灯りは点けられていないため薄暗かった。
室内には自分と兄の二人しかいないというのに、そこには静けさ以上の何かが空間内に流れている気がした。
それはきっと、兄──エレディテル・ローレンスが告げた言葉が関係しているからだろう。
「……兄様。申し訳ありませんが、もう一度、仰っていただけませんか」
セリフィアは身体を小さく震わせながら、恐る恐る訊ねる。
本当ならば、同じ言葉をエレディテルにもう一度、訊ねるようなことは彼の気分を害すことだと分かっている。それでもどうしても確認したかったのだ。
自分の耳がおかしかったのだと、そう信じたい言葉が目の前で革張りの椅子に座っているエレディテルから零されたからだ。
「何度も言わせるな。……進めている事柄が全て片付いたあかつきには、アイリス・ローレンスを正式な伴侶として迎える」
「……」
兄から零された予想外の言葉に、セリフィアはごくりと唾を飲み込んだ。
なぜ、どうして、という言葉が頭の中で反響していく。
しかし、動揺を覚られてはならないとセリフィアは平静を装ってから、言葉を零した。
「あの、理由をお聞きしても宜しいでしょうか。……ご存知の通り、イグノラント王国のローレンス家の最後の末裔であるアイリス・ローレンスは魔力無しです。確かにローレンス家の血を一番に濃く受け継いでいるのは彼女以外にはいないでしょう。ですが……」
震えそうになる声に力を込めながら、セリフィアは真っすぐにエレディテルを見つめる。
ブリティオン王国だけでなく、イグノラント王国内においても、自分達と同じくローレンスの血が濃かった女性はアイリス以外にはいなかった。
兄は血が濃い者同士で結びつき、更に血が濃い子どもが生まれることを望んでいる。
それはただの跡継ぎとしてだけではなく、彼の野望の一端でもあった。エレディテルは彼自身と同等の魔力を持つ者が目の前に現れることを望んでいるからだ。
「永遠の黄昏の筆頭魔法使いである兄様に、魔力無しが嫁ぎ、更に血を交えるとなると、他の純潔の魔法使い達から批判が飛んでくるのでは……? それに、兄様も……魔力無しのことは良く思っていなかったはずです」
エレディテルは魔力無しのことを関心の対象にすら入らない程度のものにしか思っていなかったはずだ。
それなのに何故、兄はアイリスを伴侶としてこちらのローレンス家に迎えるなどと言うのだろうか。
……嫌だ。だって、アイリスにはクロイドが……。
セリフィアはアイリスとクロイドが相思相愛の仲だと知っている。お互いにお互いを好き合っている二人は他者である自分から見ても、眩しく、そして温かく思えた。
だからこそ、二人の関係性を壊したくはないと思ったセリフィアは、エレディテルの花嫁候補の中にアイリスを推すようなことはしなかった。
アイリスとクロイドにはこちらの事情に巻き込まれないまま、幸せになって欲しいと──。
……待って。どうして僕は……あの二人に幸せになって欲しいなんて、思ったのだろう?
心の中に不思議な感覚が巡っていく。
確かに、自分はアイリスを花嫁候補としては推してはいない。
それはただ単に彼女が魔力無しだからという理由で、兄の伴侶になるべきではないと判断したからでは──。
それなのに何故、アイリス達を守るようなことを今、一瞬だとしても考えてしまったのか、理解出来ずにいた。
「お前の言う通り、確かにアイリス・ローレンスは魔力無しだ。俺だって、魔力無しのことを快く思っているわけじゃない。それでも今後の利を優先するならば、私情は置いておくべきだからな」
そう呟きつつ、エレディテルは机に上に置かれていた冷えたワインボトルを右手で掴むと透明なワイングラスの中へと甘美な匂いがする液体を静かに注いでいく。
そして、机の引き出しから取り出した親指ほどの大きさの小瓶の栓を抜き、小瓶の中に入っていた真っ赤な液体をワインの中へと混ぜるように注いでいった。
「それに血を重視する以上、彼女以外に適任者はいない。……だが万が一に、俺の身に何かあった場合にはセリフィア──。お前が、クロイド・ソルモンドを婿としてこの家に迎え入れろ」
「……」
エレディテルは暗に、クロイドとの子どもを作れと自分に言っているのだろう。クロイド・ソルモンドは自分が調べた中で、アイリスの次にローレンスの血が濃い人間だ。
ローレンス家を継続させていくにはエレディテルか自分のどちらかが血を繋いでいくしかないのだ。
それは分かっているのに、心の底ではアイリスとクロイドの仲を引き裂きたくはないと訴えていた。
……嫌だ。でも、どうしてそう思うのか、僕には分からない。感情が嫌だって思っているのに、僕はそう告げることは許されていない。
「まぁ……。ただ、魔力無しを迎え入れるとなると、外野がうるさいからな。そのために博士の研究結果を使わせてもらう」
「っ……! ですが、博士の研究は中途半端なままです。薬を体内に入れて、必ず魔力が宿るかどうかは分かりませんし、魔物に変化する可能性だってあります」
先日、イグノラント王国のオスクリダ島から戻ってきたハオスが言うには、セプス・アヴァールどころか島人全員が、島内から姿を消していたのだという。
恐らく何かしらの大事が起きて、全員が消え去ったのだと言っていたが、今のところは何が起きているのか状況は掴めてはいなかった。
そのため、セプスが生きているのか死んでいるのかも分からないままだ。
また、セプスが積み上げてきていた研究結果を記したものは、彼の実験に気付いたイグノラントの教団の人間が証拠として持ち去ってしまっているらしく、魔力無しに魔力を宿すという実験は中途半端なままに終わっていた。
セプスが作った薬を魔力無しに投与して、成功した例はいまだないと聞いている。
そのため、そのような中途半端なものをアイリスに投与して、彼女が魔物になってしまわないか、セリフィアはそのことだけが心配だった。
「もちろん、博士の実験結果をもとに新しい実験を行って、新薬を作るつもりだ。その辺りはハオスに任せる。……まぁ、アイリス・ローレンスに薬を投与するよりも、早い時期に口うるさい老いぼれどもは黙らせるつもりだけれどな」
彼の言う老いぼれとは、「永遠の黄昏れ」の上層部の年老いた魔法使い達のことを指しているのだろう。
彼らの中には表立っては言わないが、エレディテルの強行的なやり方と他の魔法使い達の扱いについて大きな不満を持っている者が多いと聞いている。
低い声で笑ってから、エレディテルはワイングラスを手に取り、グラスの中に入っている液体を弄ぶように揺らした。
見慣れているはずの赤い色の液体は月明りの下で、更に生々しく鮮やかに見えていた。




