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夢から覚めて

  

 地面の上を裸足で歩くのは久しぶりだった。と言っても、今は黒毛の獣のような足をしているので、裸足と言っていいものか分からないが、そんな些細なことは気にしなかった。


 柔らかな土と薄っすらと生えている草たち。普段ならば、それほどじっくり見ようなんて思わないのに、今日だけは特別だった。


 緩やかな坂道になっている土の上を歩きつつ、ライカは視線を海の方へと向ける。まだ朝日が昇っていない地平線は青いままだ。


 どこかで、鳥が鳴いた声が聞こえたが、海から遠い場所にこれから行くならば、あの鳴き声を聞くのは今日が最後かもしれないと何気なく思った。


 鼻先を掠めて行く潮の匂いに、困ったような笑みを浮かべてから、足を進めて行く。


 嗅ぎ慣れているはずなのに、半魔物化していることで嗅覚が良くなり、潮の匂いがいつもよりも強く感じられた。


 それでも、潮騒に混じる音は他には何も聞こえなかった。


「……皆がいなくなっても、朝は来るんだね」


 ぼそりと呟いた言葉は風の中に消えて行く。


 いつものこの時間は、漁に行っていた漁師たちが帰って来る時間なので、船着き場辺りが騒がしくなっているが、今日は驚くくらいに静かだ。


 人が誰もいないのだから、当たり前の静けさであるはずなのに、どうしても違和感しかなかった。


 道を歩いていれば誰かと顔を合わせて、今日は随分と暑いね、なんてことを話していたのが遠くの日々だったようにも感じられる。


 そんなことをぼんやりと考えつつも視線を向ければ、近所のおじいさんが住んでいた家に辿り着いていた。


 ……いつも畑仕事を手伝っていたコージさんの家。


 畑仕事を手伝えば、野菜をたくさん持たせてくれた。血は繋がっていないけれど、朗らかな祖父のような人だった。


 コージの家は扉が開けっぱなしだ。

 ライカはその家の扉をゆっくりと閉めてから、そして道端に咲いていた名前と存在さえも気に留めなかった花へと手を伸ばし、その花を手折ってからコージの家の玄関先へとそっと置いた。


 何かを言葉にしなければならないはずなのに、言葉に出来なくて、ライカは花に向けて頭を深く下げてからその場を移動した。


「……学校にも行ってみよう」


 通学路を歩けば、必ず誰かに挨拶を受けるのが常だった。それがいつしか当り前のことだと錯覚していたのかもしれない。


 同じ学校に通っている子達と会えば、学校まで走って競争したり、宿題をどれくらいしたのか、なんて他愛無いことで盛り上がっていた。


 本当に、普通の子どもだった。


 ……あの光景を当り前にしてしまうなんて。


 変わることなどないと思っていた。疑いもしなかった。

 だからこそ、惜しむことなどしなかったのだ。


 学校の運動場に辿り着いたが、ライカはそこで口を噤んでしまう。運動場の地面の上には赤黒いものが大量に広がったままだった。


 これは先日、島人達がセプス・アヴァールの薬によって魔物になったもの達が死んだ痕だ。生々しい血痕が地面にこびり付いたまま、乾いたのだろう。


 ……きっと、この血痕もそのうち雨で流されて消えてしまうんだろうな。


 ライカは地面から顔を上げて、校舎へと視線を向ける。走り回っていた運動場には誰一人としていない。


 校舎の中から、授業を始めるために生徒達を呼ぶ先生の声も、友達だった子達の笑い声も聞こえない。


 何も、聞こえない。

 何も、響かない。

 何も、見えない。


 ……静かすぎて、違う世界にいるみたいだ。


 脳裏に焼き付けるようにライカは校舎と運動場を見つめてから、踵を返した。


 次はどこに行こうか。

 きっとどこへ行っても、静けさしか佇んでいないことは分かっている。


「……悲しい、なぁ」


 言葉として口に出しても、もう涙は出なかった。薄情というわけではなく、本当に涙が出なかったのだ。


 この島で生まれて、この島で生きて来た。


 潮騒も人の声も、笑みも何もかもを覚えているというのに、同じものをこの身に受けることは二度とないのだ。


 地面を歩く足音は自分のものだけで、気配は周囲からは感じられない。


 誰もいない、オスクリダ島。恐らく、この島は歴史の中から消えるのだろう。静かに、密やかに、知られることなく。

 「オスクリダ」という名前の通り、闇の中へと葬り去られるのだ。


 ……でも、僕は忘れない。だって、この島で過ごした時間が、感情が、思い出が──今のライカ・スウェンを作っているのだから。


 だから、忘れたりはしない。自分の存在こそが、オスクリダ島が確かに在ったことを意味している限り、絶対に忘れたりはしないのだ。



・・・・・・・・・・・



 島中を見回り終わった頃には海の向こう側から太陽が昇ろうとしている時間帯になっていた。


「眩しい……」


 誰かがいなくなっても、世界は回り続ける。

 それがこの世の摂理だ。止まることは無い。


 だが、自分の世界を止めることは出来る。

 それを決めるのは自分自身だ。


 だからこそ、ライカは自嘲する笑みを引っ込めてから、昇り始めた太陽を細めた瞳で眺め続けた。


 これから先、この夜明けの光景を何度も見ることになるのだろう。

 そのことを当り前だと思ってはいけない。でも、特別だと思ってもいけない。


 ……生きるって難しいな。


 ライカは太陽から目を逸らし、そしてスウェン家へと続く坂道を歩き始める。


 もう、そろそろ皆が起床する時間だろう。こっそりと部屋へと戻って、何事もなかったような顔で朝の挨拶をしなければならない。

 そう思っていると、何となく人の気配がした気がして、ライカは顔を上げた。


「……」


 視線の先にはスウェン家が建っている。だが、その入り口となる扉の前に、何故かアイリスが立っていたのだ。

 アイリスはライカと目が合うと、すぐに柔らかい笑みを溢した。


 ……ああ、気付かれちゃったか。


 自分が何故、人知れずに外を出歩いていたのか、きっとアイリスは気付いている。


 そして、その上でアイリスが何を思って、自分の帰りを待っているのか、ライカはその一瞬で理解してしまった。

 彼女が自分に慰めや心配する言葉をかけないのは、気遣っているからだ。


 ……僕は確かに、優しくはない世界に投げ出されてしまった。だけど──。優しい人達がいないわけじゃない。


 自分にとって優しい人達は静かに見守ってくれるのだろう、この先に進む道を。

 だから、とライカはアイリスに向けて笑みを浮かべた。


「ただいま、帰りました」


 ちょっと出かけた先から、戻ってきたような口調でライカは穏やかに帰宅の挨拶を告げる。

 アイリスは小さく頷いてから、そして自分の姉と同じように優しい笑みを浮かべつつ、返事をしてくれた。


「……おかえりなさい」


 重ねてはいけないと分かっていても、今だけは重ねさせて欲しかった。


 いつも、自分の帰りを待ってくれていた姉の姿がすっと、アイリスに重なっていく。


 心に浮かんでくるのは、自分のことを想ってくれている優しい笑顔。変わらないものは、この胸と脳裏にしっかりと刻んである。


 ……十分だ。大丈夫、僕はきっと進んでいける。


 一度、瞬きをしてしまえば、アイリスに重なっていたリッカの姿は消えていた。


 ここからは、現実だ。

 もう夢を見ることは許されない。


 ライカは唇を結び、そして改めて決意するように一歩を踏み出した。

   


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