進む人
アイリスが視線を逸らしていても、クロイドは黒い瞳を真っすぐと注ぎ続けてくれた。
「……誰かの死をその身に受けた君は、あまりにも脆い。気付いていないかもしれないが、一歩踏み外してしまえば、アイリス自身が壊れてしまう程に、脆いんだ」
「……」
「そんな君を俺はこれ以上、壊したくはない。傷つけたくはない。自意識過剰だと思われるかもしれないが、俺が死んだら、きっと君は二度と立ち直れなくなるだろう。……そう分かっているのに、君を置いていくことなんて出来るわけがない」
縋ったのは、一体どちらからだっただろうか。それを忘れてしまいそうなほどに、クロイドの言葉はアイリスの心を縛り上げて行く。
「なぁ、アイリス。……君は誰かの死を悼む、優しい人だ。だが、それと同時に自分を責めてしまう情け深い心を持っている。これから先、君を襲う感情はその心では収まりきれないくらいに大きくなっていくかもしれないだろう」
こつり、とクロイドがアイリスの額に彼の額を重ねて来る。黒い瞳に吸い込まれてしまうのではと思える程の近さでクロイドは言葉を続けた。
「君はそうやって何度も傷つき、嘆いていく。今回の件だって、アイリスは全てが自分のせいだと思っているんだろう?」
「それ、は……」
クロイドの問いかけにアイリスはすぐに否定の言葉を告げることは出来なかった。
何故なら彼が言った通り、ラザリーの件もオスクリダ島での件も、自分に責任があるのではと感じているからだ。
「……リッカは、私を信じてくれたのよ。それなのに──目の前にいたのに、助けられなかった」
脳裏に蘇るのは、セプス・アヴァールに薬を投与されて、赤い鳥へと変わっていくリッカの姿だ。彼女が発していた叫び声が何度も頭の中で再生されては、アイリスの心を乱していく。
「……それに私がもっと、人を疑う心を持っていたなら……。セプス・アヴァールの言動に注意を払っていたならば、島の人達だって、一晩のうちに魔物へと姿を変えられることはなかったはずよ」
「……」
「助けたいと思っていただけなのに、どうして私は……。まるで、私の方が死神だわ」
セプス・アヴァールが言っていたではないか。──ローレンス家は他人の死の上を歩き続ける、と。
自分が関わったことで、人が死んだというのならば、自分こそが他人を死へと導く死神のように思えた。
「……ほら、そうやって全てを自分のせいにしてしまうのが、君の悪い癖だ」
「それならっ……。……それなら、どうすれば良かったと言うの……!」
悲痛な声で叫んでも、抱いていることが解決するわけではないと分かっている。助けられなかったと嘆くしかない自分が嫌で仕方がなかった。
「……アイリス」
クロイドが囁くような声色で名前を呼んだ。
「それならば君を何もない、誰もいない場所に連れて行こうか」
「え……?」
一体どういう意味だろうと、アイリスは首を少しだけ後ろへと下げてから、クロイドの瞳を見上げる。彼はどこか悲しみを込めたような寂しげな表情でアイリスを見ていた。
「君の心を煩わせるものが一切ない場所へ、連れて行こうか。そうすれば、君は嘆く必要はなくなるだろう。誰もいない場所で、感情を交えることなく、静かに、穏やかに──」
そこでクロイドは言葉を止めてから、優しげに笑ったのだ。
「でも、君は望まないだろう、そんな空っぽな生き方は」
「……」
「アイリス。君は優しい人だ。その優しさは自分のためではなく、誰かのためを想う時だけに生まれる。今の君を作っているのは、それまでに出会って来た人達がいるからだ。君が誰かから優しさを受けて、そして別の誰かへと優しくしたいと思ったからこそ、今の君がいる」
頭に乗せられたのは大きな手だ。その手でクロイドは何度もアイリスの頭を撫でて行く。
「君は嘆くだけの人ではない。後悔するだけで、一歩も動かない人ではない。……今の自分のままではいられないと思ったから、前へと進んで行くことを選んだ真っすぐな人間だ。悲しみも後悔も全て飲み込んで、そして前を見つめる人だ。……俺が出会った、アイリス・ローレンスという人間はそういう人だ、最初から」
それでも、と言葉を続けた。
「君は強く、そして脆い人だから。今回の件も自分のせいにしなければ、納得出来ないんだろうな。……誰も君のせいだと思っていなくても」
「……」
「アイリス。後悔するな、とは言わない。でも、俺達は……何かしらの選択を選び取って、進まなければならないんだ。続く先に自分が望まない未来があったとしても、その中で最善の選択を再び選んでいくしかないんだ」
真剣な表情のまま、まるで縋るようにそう呟くのは何故だろうか。
最善の選択を選んだ結果がこの現状だ。それならば、選んだ選択以外にリッカ達を助ける方法があったと聞かれれば、すぐに答えることは出来なかった。
だからこそ、納得出来ないでいるのだろう。自分の中では最善だと思っていた選択肢でさえも、最良とは限らなかったのだから。
「だが、君がこれから先、選択肢を選んで行く中で、動けなくなってしまうようなことがあれば、俺は君の心を守ることを優先したい」
「……」
「アイリスが望んでいない未来を見ることになる前に、俺は君をしがらみも感情も必要ない場所へと連れて行く。それが俺の覚悟だと心得ておいて欲しい」
逃げろ、とクロイドは言っているように聞こえた。
それでもアイリスはクロイドの決意のような言葉に返すことが出来ずにいた。クロイドも返事をいらないと思っているのか、言葉を告げた後はもう一度だけ優しく抱きしめてくる。
その穏やかな優しさにアイリスは唇を噛んでいた。
……私はきっとクロイドの言う通り、これから先、何かしらを選ばなければならない状況に陥って──。そして、選んだ方の未来が悲観するものだったならば、何度も己を責めて、後悔してしまうのでしょうね。
アイリスはクロイドの胸の中に収まるように、額をそっと彼の胸板へと添えた。同じ速度で脈を打つ心臓に安堵しながらも、心に抱いているのは整うことのない感情だった。
今回の件で許すとか、許されたいとか、そういう感情を持っているわけではなかった。
ただ、今持っている感情は後悔への自己嫌悪でしかならないのだ。だからこそ、整理しきれない感情で溢れてしまうのだろう。
結局のところ、己の無力さを嘆く以外に、自意識を抑えることが出来ないのだ。
息苦しさと悔いを抱いて、自分はまた、選択をしていかなければならない。
……もう、これ以上は失いたくはない。なら、私は──。
答えなんて初めから分かっているのに、それでも躊躇ってしまうのは、また同じような結果になってしまったらという考えが巡ってしまうからだ。
強さを求めて力を手に入れても、その力が及ばなかったことを想像してしまい、動けなくなってしまいそうだった。
逃げたくはない。
目を逸らしたくはない。
答えが分かっていても止まりたくはない。
自分が望む未来でなければ、後悔は付いてくると分かっている。
強くはなれない。
だが、強くならなければならない。力も心も、何もかも。
絶対的な最良を選び取るために。
アイリスはクロイドのシャツをぎゅっと握りしめてから、息を吐く。
「……もし、私が……。これから先、間違いを選んでしまったとしても……」
震える声は静かに言葉に変わっていく。
「クロイドは、私の傍に居てくれる?」
人は間違える生き物だ、とかそういうことではない。最善だと思った選択が最良ではなかった時、それは自分にとっては間違いになってしまうのかもしれない。
そうなってしまえば、自分はきっとまた、今のように後悔するのだろう。
「……君が望むならば、俺はどんな時でも傍にいよう」
クロイドがアイリスを抱きしめる腕に、更に力を込める。
本当に、彼は優しい人だ。どんな自分も受け入れてしまう。その懐の広さに自分は甘えてしまっているのだ。
「……ありがとう、クロイド」
まだ、選択することは怖いものだと思っている。後悔するものが待っていると思えば、安易に動くことは出来ない。
だが、進まなければならない以上、アイリスは選んで行く。自分にとっての最良を掴み取るために。
……たとえ、間違ったとしても、私は──進むしか、ないのだから。
まだ、心の整理はついてはいない。時間をかけても、抱いている感情が凪のように静かになるのは遠い先だろう。
それでも置いていくことなく、自分はこのまま連れていくのだ──それがアイリス・ローレンスという人間ならば。
静けさと遠くからの潮騒だけが、その場を満たす中で、アイリスはクロイドの身体に寄り添いながら、己を責める涙をもう一度だけ、流していた。
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