想起する熱
それから、どれほど時間が経っただろうか。お互いの身体が冷える程、外にいたということは、思っているよりも時間が経っていることが窺える。
それでもアイリスはいまだにクロイドの胸の中にいた。
「……」
震えも涙も収まったが、心は乱れたままだ。子どものように泣きじゃくるアイリスをクロイドは何も言わずに、静かに抱きしめている。
本当は彼だって、今回の件で色々と思うことがあるだろうに、それに関する感情を表に出さないまま、アイリスを受け止めてくれていた。
その温もりに甘えてはならないと自覚しているのに、縋ってしまうのだ。
「……クロイド」
「何だ?」
頭の上から、穏やかな声が返ってくる。抱きしめてくれる腕は変わらず強いままで、その強さに安堵を感じていた。
名前を呼んで、返事が返ってくる。
それがどれほど尊いものなのか、アイリスは何度も再確認していた。
「……お願い。あなたは……死なないで。私の前で、私の知らないところで、死なないで」
「アイリス……」
子どもの我儘のように、アイリスはクロイドの肩口に額を押し付けながら、訴えた。
「誰にも死んで欲しくないの。目の前で死んだ誰かを想って、嘆く声を聞きたくはないの。お願い、クロイド。……あなたまで失ったら、私は……きっと、もう……」
それ以上を言葉にすることが出来なくなったアイリスは右手でクロイドのシャツの心臓辺りを掴むように握りしめた。
布越しに伝わって来る心臓は確かに動いている。だが、いつか、この心臓が自分の目の前で音を止めてしまうのではと恐れずにはいられなかった。
そうなってしまえば、きっと自分は動けなくなる。もしかすると発狂してしまうかもしれない。
これ以上、親しい人の死を見つめてしまえば、耐え切れなくなって、どうにかなってしまいそうだった。
「嫌なの。自分のせいで、自分の目の前で……誰かが死ぬのは、もう……」
駄々をこねるようにアイリスは言葉を吐き出す。
自分が立っている世界はいつだって、生と死が表裏一体だ。そんなこと、この世界に入る前から分かっていた。
家族を目の前で失ったあの日から、人が死ぬということがどのようなことか理解していた。
死んだ人間は生き返らない。
それはこの世の摂理で、変えられない真理だ。
だからこそ、人の命が尊いわけではない。限りがあるから尊いわけではない。
交わした感情と時間、温度、言葉、仕草、何もかもがもう二度と感じることが出来ないからこそ、尊いのだ。
「クロイド、お願い。死なないで。私を置いていかないで」
「……」
舌足らずな子どもが己の望みを通すために我儘を伝えているように思われているかもしれない。それでも、訴えずにはいられなかった。
自分はきっと、これから先も誰かの死を真っすぐに受け入れることは出来ないのだろう。
それが枷となり、自分を縛り付けるものになっているとしても、割り切れることは難しいと分かっていた。
自分は、そういう人間だ。他人の死を見据えて、自分の心を穏やかに昇華するためには、時間がかかると分かっている。
それは自分の心がまだ、子どものままだからだろうか。大人になれば、誰かの死を仕方がなかったと割り切れるのだろうか。──いや、きっと無理だろう。
それならば、いっそのこと誰とも結びつきを持たないまま生きる方が楽だと思えるかもしれない。
だが、自分にとって誰かと感情を交えないまま生きて行くことは、死に近い生き方だと思えた。
「クロイドっ……。お願い、死なないで……。約束、して……」
自分にとって死んで欲しくはない人に、願いを乞うことはなんと傲慢だろうと自覚している。
それでも、日に日に「死」というものに対する恐怖が沸き上がってきてしまうのだ。
ラザリー・アゲイルを目の前で見送り、オスクリダ島の島人達をこの手で殺し、そしてリッカを助けることは出来なかった。
無力だという表現では足りないほどに、自分は愚かだ。人を助ける力を持っていないくせに、助けたいと思ってしまう傲慢さを抱いたまま生きている。
それを捨て去ることさえ出来ないまま、生き残った自分はのうのうと日常を送っているのだ。
誰かの死に自分が関わったことは事実だというのに、自分だけが生きていることに対して罪悪感が生まれないわけがなかった。
だからこそ、どうか死なないで欲しいと願うしかないのだ。あやふやな願いだと思われるかもしれないが、守り切る力がない自分には、独りよがりなこの願いを伝えることしか出来なかった。
クロイドは黙ったままだ。何かを考えているのか、それともアイリスの我儘に呆れているのか。
弱い自分を晒してしまったことを、アイリスは少しだけ後悔して、密着していた身体を離そうとした時だった。
アイリスを抱いていた腕の力がふいに弱まり、そして改めて腰に手が回されて、違う形での密着した状態になっていたのだ。
顔を上げれば、黒い瞳が自分だけを映していた。細められた瞳に込められている感情がどのようなものなのか、気付けずにいたアイリスはクロイドと視線を交えたまま動けなかった。
「ク……」
名前を呼ぼうとした瞬間、クロイドの顔が自分へと近づいてくる。
落とされたのは、噛みつくような口付けだった。どうして、今──。そう考える暇もないまま、アイリスの意識はクロイドの全てに支配されていく。
「っ……」
クロイドの右手は腰に、そして左手はアイリスの後頭部に回されているため、簡単に逃れることは出来ない。怖さは感じないのに、どうしてこれほどまでに心苦しい口付けを彼はしてくるのだろうか。
触れ合う唇に音と熱が混じっていく。
その音を耳に入れてしまえば、それまで抱いていた懺悔の感情が塗りつぶされていく気がして、アイリスは力いっぱいにクロイドの肩を掴んで、引き離した。
「……どうして」
自分に、こんなことをするのかと問いかけるにはあまりにも近すぎたため、アイリスは視線を逸らした。きっと、クロイドから見た自分は頬を赤く染めているに違いない。
「熱を、覚えておいて欲しいんだ」
「え……」
少しだけ、覗き込むように顔を上げれば、切なげに目を細めたクロイドの瞳が自分を見ていた。
「俺は君に約束しただろう。……君の前では絶対に死なないと」
「……」
クロイドが交わしてくれた約束がふっと、頭の中に蘇ってくる。確か以前、ジュモリオンと戦った後に自分に向けて誓ってくれた言葉だ。
「俺はアイリスを悲しませたくはない。だから、君の前では死なないと約束する。それでも……この言葉を不安に感じる時があるなら、どうか今、感じた熱を思い出して欲しい」
クロイドはアイリスの左頬に右手を添えてから、親指でそっとアイリスの唇を沿うように触れた。
「その熱を君がもう一度、感じたいと思ってくれるだけで、俺は生きたいと強く思える。……君がいなければ、俺には生きる意味がないからな」
「っ……。そんな、ことは……」
「前にも言ったはずだ。俺は、君に依存している。生きたいと思えるのは、君がもっと欲しいと思うからだ。だからこそ、簡単に死ぬつもりなんて更々ない」
そう告げると、クロイドは再びアイリスの唇へともう一度、口付けを落としてきた。
先ほどと比べると短い口付けだったため、どことなくもどかしさを感じてしまう。まさか、この感覚こそが、クロイドが望んでいるものだというのか。
それに気付いたアイリスは、気恥ずかしさと居た堪れなさで感情がいっぱいになり、首を後ろへと引いてしまう。




