海の絵
ふと視線を向ければ、ライカが何故か呆然とした表情で立っている姿が目に入り、一体どうしたのだろうかと声をかけてみる。
「ライカ、どうしたの?」
真っすぐと立っていたライカはぎこちなくアイリスの方へと振り返りつつ、右手の指をとある方向へと向けていた。
それは壁に張り付くように、額縁に飾られている一枚の絵だった。恐らく、診療所が建っている場所から見渡せる海原の景色を色鉛筆で描いているものなのだろう。
濃い青い色で描かれているというのに、絵の雰囲気は柔らかく、水色で塗られている空には白い鳥が自由に飛び交っていた。
優しい絵だと思えるその右下には黒い鉛筆で小さな文字が添えられている。
『ナルシス・カール』
可愛らしい字で書かれているのは、絵を描いた者の名前だろう。だが、カールという苗字が入ってため、クリキ・カールに近しい者ではとふと思った。
「……この絵、クリキ先生の娘さんが描いた絵なんです。僕と……同級生でした」
ぼそりとライカが呟く。彼の瞳は真っすぐと青く輝くように描かれている海の絵を凝視していた。まるで、逸らすことを忘れたようにライカは目を見開いたままである。
今はもう、会うことは出来ない同級生の女の子のことを思っているのか、ライカの拳は少しずつ握りしめられていた。
「学校の授業で、宿題が……出されたんです。……この島で、一番好きなものを描くって、美術の授業で……」
何かを思い出すようにぽそり、ぽそりと呟いていく。
「その時、ナルシスさんが……描いた絵が、この絵でした。……この海の絵をクリキ先生にプレゼントしたと言っていました。……凄く、喜んでもらえたって、笑っていて……」
ライカの青い瞳は少しだけ揺れて見えた。だが、アイリスは何かを発することなく、彼の言葉を待った。
「クリキ先生も……この絵が宝物だと言っていました。……皆、凄く……幸せそうだったのに」
そこでくしゃりとライカの表情が歪んだ。
ナルシス・カールという同級生と親しくしていたのかもしれない。それが全て思い出になってしまったことをライカはどのように思っているのだろうか。
それでも、ライカは泣いてはいなかった。ただ、真っすぐと絵を見つめたまま、何かを決心したように、額縁へと手を伸ばす。
かたん、と木材が壁に当たった音が響いた。ライカは絵が入っている額縁を手に取り、ゆっくりと外していく。
しかし、外された絵の下の壁には想像していなかったものが突然現れた。
「え……」
アイリスはその壁を凝視する。
絵が飾られていた壁には、扉の取っ手らしきものが取り付けられていたからだ。四角形の小さな扉となっており、恐らく海の絵がこの扉を上手く隠していたのだろう。
「……書斎の隣の部屋は寝室でした。試しに壁を叩いて回ったら、ちょうどこの壁の向こう辺りで、叩く音が変わったんです」
静かにそう呟きつつ、ライカは海の絵を両手で大事そうに抱え直す。
「壁と壁の間に何かがあると思って見に来たのですが……。娘さんが描いた大事な絵の下に隠すなんて、やはりクリキ先生らしいです」
「ライカ……」
「開けましょう、アイリスさん」
迷うことなくライカははっきりと言い切った。そこに後悔などは微塵も感じられない。
「きっと、セプス先生はこの絵の下に何かが隠されているなんて思ってもいなかったでしょうね。……ほら、絵の額縁には埃が溜まっています。もし、多い頻度でこの小さな隠し扉を開け閉めしていたならば、埃は溜まりにくいでしょうから」
ライカは海の絵を机の上へとそっと置いてから、隠し扉の前へと再び立つ。開ける覚悟はすでに出来ているようだ。
「それじゃあ、開けるわよ」
「ええ」
何が潜んでいるか分からないため、アイリスは警戒しながら、小さな扉の取っ手に手をかけた。ごくりと唾を飲み込んでから、取っ手を後ろへと引く。
長い間、閉じられていた扉は少し軋んだ音を立ててからゆっくりと開いていった。
「……」
扉の向こう側の小さな空間はまるで時間が止まっていた箱庭のようだった。
そこには紐で綴じられている原稿用紙の束と、古いノートが二冊、そして分厚い本が数冊ほど、並ぶように押し込まれていた。
アイリスとライカは一度顔を見合わせて、それから扉の中へと手を伸ばす。
原稿用紙とノート、本に触れても、特に何かの力が宿っているわけではないため、跳ね返されることはなかった。
並べられていた分厚い本の題名は「東方の神々」、「東方の民俗学」、「名もなき神」、「知られざる植物達」、「毒草・薬草事典」、「墜ちた星の行方」、「造られし地形」──と言った本ばかりで、統一感がないものとなっていた。
……クリキさんも東方の国のことについて調べていたということかしら。
アイリスは何気なく、本を手に取ってから中身を軽く確認してみる。中身は隕石や自然の力によって作られた地形について記されているものだった。
何故、そのような本が隠されていたのだろうかと首を傾げるしかないが、きっとクリキ・カールしか分からない何かがこの隠し扉の中に秘されていたのだろう。
アイリスは次に原稿用紙らしきものへと視線を向ける。表紙には大きな文字で「島誌」と書かれている。
ライカが言っていた通り、これがクリキ・カールによって書かれていた島誌の原稿のようだ。
「やっぱり……あと少しで完成だったんだ……」
ライカはクリキ・カールが書いた原稿を手に取ってから、ぱらぱらと捲っていく。
原稿用紙の一番最後の紙には「編纂 クリキ・カール」と書かれており、協力者として島人達の名前がずらりと綴られていた。元々、この島にいた人数がそこには記されているのだろう。
ライカは名前が書かれている項目を指で追っていき、そして手を止めてから一瞬だけ泣きそうな顔をした。
ライカが見つけたのは、彼の両親の名前だった。
一年前まで生きていた両親の名前を目にして、ライカは顔を今にも泣き出してしまいそうなほどに崩していた。
だが、すぐに気持ちを持ち直したのか、顔を上げてから原稿用紙を閉じる。そして、まるで何事もなかったように、アイリスの方へと振り返った。
「……アイリスさん、そちらのノートには何が書かれていますか」
感情を押し込めてしまったライカにアイリスは言葉をかけることも出来ないまま、話をわざと逸らそうとする彼に合わせることにした。
アイリスは手に取ったノートを軽く捲りながら、中身を確認していく。
「……こっちの青いノートは原稿を書く際の覚え書きみたいな文章が書かれていたわ。でも、こっちの黒いノートはクリキさんの日記……というよりも手記みたい」
「手記ですか……」
「とりあえず、読むのはクロイド達に報告してからにしましょうか」
お目当てとなるものは今、自分達が手に持っているもので間違いはないはずだ。クリキ・カールが残した遺物というべきもの達が出て来るなんて、セプス・アヴァールも驚きだろう。
アイリスは別の部屋で捜索を続けているクロイド達を大きな机がある部屋へと呼んで、クリキ・カールが書いた原稿とノートの中身を読むことにした。




