別れ
「行こう、姉さん。僕と一緒に……」
ライカはリッカへと手を伸ばす。
しかし、次の瞬間、リッカは両翼を大きく広げてからその場に強風を沸き起こしたのである。
ぶわりと熱風がその場を駆け抜けて行ったと思えば、リッカから直接的に熱風を受けたライカの身体はアイリス達の方へと転がるように飛ばされて来たのだ。
「わっ……」
「ライカ!」
アイリスはすぐさま、屋根上を転がるライカの身体を受け止めてから、支えながら立たせる。
それから視線を上へと向ければ、セプスの身体を両脚で掴んだまま飛行し始めるリッカの姿があった。
瞬間、リッカはセプスの遺体を持って、このままどこかへ消え去ってしまうのではという考えが過ぎる。
だが、それはライカも同じだったようで、彼の喉からは引き攣ったような声が、ひゅっと漏れる。
「何で……。どうしてなの、姉さん……」
両翼を羽ばたかせながら、リッカはライカを見下ろしていた。その瞳は濡れていると分かっているのに、アイリスは声をかけることが出来ずにいた。
止めるための言葉を誰も吐き出すことが出来なかったのだ。
「待ってよ、姉さん! 行かないで……! 嫌だっ……」
ライカはよろけながらもリッカに向かって走り出す。しかし、宙を浮かぶリッカに向けて何度も手を伸ばしては、ライカの手は空を掴んでいた。
「行かないで……。僕を……僕を一人にしないでっ……!」
ライカは叫ぶ。声が出せる限りに、ただ感情をぶつけるように叫んだ。
「ねぇ、お願いだよ……。僕、もう姉さんを困らせたり、悲しませたりしないから……! 僕、頑張るから……! 姉さんを絶対に一人にしないからっ! だから、一緒に……」
生きてよ、とライカが小さく呟いた時、頭上から雫が数滴、零れ落ちる光景が目に映る。
雫が零されたのはリッカの瞳からだった。赤い雫が揺れて、零れて、散っていく。
その雫がライカの頬のぴたりと落ちて、赤い線を描いていく。
……笑っている。
リッカは涙を零しているというのに、アイリスの目にはリッカが笑っているように見えたのだ。ライカを見つめている瞳はいつもと変わらない、穏やかで優しいものだった。
「っ……」
ライカもリッカの瞳から何かを覚ったのだろう。首を横に振りながら、嫌だと小さく呟いた。
リッカは自身の胸辺りに向けて嘴を突いた。赤い羽毛の中から何か引き抜くように取り出して、それをライカの方へと放り投げたのである。
宙を舞うようにライカの手元へと落ちて来たのは、布の切れ端で作られた三角錐の小さなお守りだ。
振動したのか、お守りの中に入っている鈴がちりんと軽やかな音を立てて、滲むように響き渡っていく。
──守り鈴……。
それはリッカ自身が肌身離さず身に着けていた守り鈴だった。数日前に、リッカが自分達に作ってくれたものと同じように見えて、同じではないもの。
リッカの母がリッカのために作った守り鈴が今、ライカの手元にあった。
「何で……」
ライカの声が震える。どうして、リッカの守り鈴を自分へ渡したのかと問うているのだ。
リッカは再び、目を細めていく。
──見守っているから。
彼女が人間だった時に零した言葉が、耳の奥へと囁かれた気がした。
自分は、もう人間には戻れない。
だから、同じ場所で生きることは出来ない。──それでも、ライカを見守っているから。
そう伝えているような気がして、アイリスの身体はいつのまにか震えてしまっていた。
まるでライカへと渡した守り鈴が自身の形見だと言わんばかりに、リッカは一度、甲高い声で鳴いた。
言葉を紡いでいないというのに、その鳴き声に込められている感情がライカに向けられたものだとすぐさま理解してしまう。
「嫌だよ……。ねえ、お別れ……なんて、嘘だよね……?」
リッカの守り鈴を両手で握りしめつつ、ライカは更に首を振る。駄々をこねる子どもではなく、その様子は一つの希望に縋る姿に見えていた。繋ぎ止めようと彼は声を紡ぐ。
「姉さんっ──!」
瞬間、リッカは両翼を大きく羽ばたかせてから、さらに上昇していく。
もう、ライカの手には届かない位置まで浮かんで行き、そして、迷える森の方に向けて、振り返ることなく飛び去っていく。
熱風が頬を撫でるように駆け抜けて行った。これで、最後だと告げるように、あまりにも柔らかすぎる風だった。
「行かないでっ……! 行かないでよ、姉さんっ……!」
守り鈴を両手に握りしめたまま、ライカは声が続く限り叫んでいた。だが、セプスの遺体を掴んだまま、リッカはライカへと視線を向けることなく、遠ざかっていく。
全てを置いて行くように、リッカがライカの方を見ることは二度となかった。
遠くに、遠くに。
もう、二度と会うことはないのだと、知らしめるように。
「う……ああっ……! あぁ……っ……」
一人、残されたライカはその場に膝を折るようにしながら崩れ落ちる。
彼の願いは届かなかったのだ。
リッカと共に、生きる。
そのライカの願いをリッカは受け入れずに、まるで夜の闇の中へと混じるように姿を消していく。
彼女が身に纏っていた炎の色さえも、夜の景色の中には映らないものとなっていった。
リッカはどのような想いを抱いて、ライカの元から去って行ったのだろうか。それをはっきりと知ることは出来ないまま、彼女はライカを置いて行った。
セプスを殺したことに対する罪を背負うためにその身を隠したのか、それとも魔物へと身を堕としたことで、ライカと共に人間として生きることを諦めたのか、一体どちらだろうか。
いや、きっと簡単に分けられるものではないのだ。リッカは常に感情を秘めたまま、笑顔を見せてしまう人だと知っている。
だからこそ、胸に秘めた激しい感情を伝えないまま去っていくことを選んだのだ。
それでも、その身を燃やしながら闇夜へと溶け込んでいくリッカの姿は、彼女が持っていた感情の全てを焼き尽くしているように感じてしまう。
「……っ」
アイリスは目の前で、丸くなって嗚咽しているライカの姿を見て、思わず飛び出していた。
後ろから、小さな背中を包むように抱きしめる。震えている身体は、嘆きを表していた。
姿を消し去っていったリッカは生きることを選ばなかった。そのことをライカは嘆いているのだ。
「う、ぁ……あぁっ……」
アイリスが両腕で包み込んでいるライカは止まることのない涙を流しては、闇の中へと消えて行ったリッカの姿を求めるように、空を見上げる。
どこにもいない、姉の姿を探してはライカは再び、声を漏らすように泣いていた。返事は返ってこないと分かっていても、ライカはリッカを呼び続ける。
「姉さ……ん……。うっぁ……あぁ……」
誰も、何も発することは出来なかった。嵐が過ぎ去ったような静けさがその場に残されている中、ライカの泣き声だけが響いていく。
優しい言葉をかけることなど出来ない。自分達はただ、ライカの傍に寄り添うことしか出来ないのだ。
そしてこれからも、ライカの傍で彼を見守るために寄り添い続けるのだろう。
リッカの代わりにはなれないと分かっていても、彼の心の拠り所になれないと分かっていても、いつかライカが真っすぐと一人で立てるように傍で見守り続けるのだ。
それでも──。
独りぼっちになってしまったライカの夜明けはまだ、来なかった。




