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赤い一閃

  

 瞬間、風を切る音がアイリス達へと近付いて来ていた。その足音は明らかに魔物だ。


 だが、剣を抜くことも振り返ることも出来なかったアイリスの横を素早く抜けていったのはイトだった。彼女はすでに抜いていた長剣で、迫りくる魔物を一瞬にして両断していたのである。

 まるで、分厚い肉を切り分けるような音がその場に生々しく響く。


「……」


 アイリスはゆっくりと、イトの方へと振り返った。そこには動かなくなってしまった豹にも似た生き物がぐったりとして倒れており、赤い線が入った喉からは留まることなく、鮮血が流れ出ていた。


 転がる死体に死を与えるべく斬ったのは間違いなく、イトだ。彼女は躊躇うことなく、魔物を斬り捨てていた。

 死体となったものがかつて人間だったことを知っているはずなのに、まるでそれを感じさせないように淡々として見えたのだ。


「──いい加減に、覚悟を決めて下さい」


 ぼそりと呟かれたイトの言葉は真っすぐとアイリスに向けられたものだった。

 彼女は長剣を一度、軽く横へと振ってから、刃先から滴る血を吹き飛ばした。地面の上に、鮮やかな色が斑点を描いていく。

 

 イトは長剣を鞘へと戻してから、気配を静めたままアイリスへと近付いてくる。

 その間にも、自分達を追いかけて来ている魔物が唸り声を上げつつ、多くの足音を従えながらこの場へと近付いてくる音が響いて来ていた。彼らはもう、すぐそこまで来ているらしい。


 足音と唸り声を耳に入れるたびにアイリスの心臓は大きく跳ねていた。迫っているのは必ずしも死だけではない。渦巻いて仕方がない、この奇妙な感情は一体何だと言うのか。


「アイリスさん」


「……」


 動けずにいたアイリスの肩をイトは強い力で掴んでくる。


 月の光の下で照らされている彼女の黒い瞳は夜の海の凪のような静けさで、揺らぐことはなかった。迷いなんて、一つも感じられない瞳をしていたからだ。


「決めて下さい。守りたいものを、守ると決めているのならば、どちらかに優先順位を付けなければならないと自覚して下さい」


「……っ」


 叱責するようにイトはアイリスが踏み止まっていたことに対して、はっきりと言い放つ。優先順位、それは自分が守りたいと思っているものからどれか一つを選ばなければならないということだ。


「……斬り捨てることに、どうか覚悟を……全てを背負う、覚悟を決めて下さい」


 そこで初めてイトの夜凪のような表情が、大きく歪んだ。本当はイトも魔物となってしまった人達を助けたいと思っているのだ。

 だが、それは叶わないことだと理解して、自分の心の奥底へと激しい感情を押さえ込んでいるのだろう。


 ……強い人だわ。


 一切、心の弱みを見せずに毅然としたまま、イトは刃を魔物へと振るった。それは彼女が、殺したものに対して、その命の重さを背負うための覚悟を決めているからだろう。

 この先、どのような批判や冷たい視線を浴びせられても、決して背中を向けることなく、受け取るために。


 人を、殺す。

 それがどれほどに重く、辛い枷なのかをイトははっきりと自覚しているのだ。


 アイリスはいつの間にか両拳を握りしめ、唇から血が出る程に噛んでいた。


 足音が近づいてくる。唸り声が響いて来る。そして、敵意がむき出しになった、その感情は明らかに自分達に向けられたものだとすでに理解している。


 もう、彼らは人間ではないのだ。

 柔らかな夏の日差しのような笑顔を、神を信じていた純粋な瞳を、疑うことを知らずに祈り捧げた言葉を──彼らから二度と受け取ることは出来ないのだ。


「──あぁっ……!」


 アイリスは全てを絞り出すように叫んだ。言葉にすることさえも出来ず、ただ叫ぶしか出来なかった。左手で胸を押さえてから、全ての息を吐き出すように、全身を震わせながら声を出す。

 

 泣いてはいなかった。泣くことなど、自分には許されない。だって、自分は今から──人を殺さなければならないのだから。


「あぁっ……! あぁぁっ……!!」


 生きるために、守るために。


 そのために、自分は選ばなかったものを捨てなければいけないのだ。選ばなかったもの達に懺悔することさえ、許されないのだろう。


 アイリスは右手を長剣の柄に添えた。イトの両手から逃れるように、無理矢理に背後を振り返る。


「──アイリス!」


 クロイドが後ろから自分の名前を呼んだが、今は慰めるような優しい声さえも聞きたくはなかった。


 迫りくる魔物が自分の方へと鋭い牙を剥いて、襲い掛かって来る。敵だ。牙を向けて来るものは全て、敵なのだ。

 もはや、どうすることも出来ない、考えることも出来ないのだ。


「っ──ああっ!!」


 アイリスは長剣の柄を掴み、一気に鞘から引き抜いた。その刹那、襲い掛かろうとしていた魔物は一瞬にしてアイリスの刃によって、真っ二つに引き裂かれていく。


 剣を通して、魔物を斬ったという感触が右手に確かに残る。この感触を自分は知っているはずなのに、どうしてこれほど別物に思えてしまうのだろうか。

 だが、殺したものに対して涙を流すことは今の自分には許されない行為だと分かっていた。


 べちゃりと、生々しい音が足元へと落ちて、そこに鮮やかな海を広げていく。今から、自分はこの海を数えきれない程に生み出していくのだろう。


 剣を一度、横に振れば、魔物を斬った際に付着した血が地面の上に半月を描く。


 アイリスは青嵐の靴(ブルゲイル・ブーツ)の踵を三回鳴らしてから、短く息を吐き、そして弾丸のように魔物の前へと飛び出した。

 渦巻く感情をひと振りに託し、アイリスは己の心を殺して、赤い一閃を薙ぎ続けるしかなかった。

   

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