抜けない刃
ライカの「生きる」という想いを受けとったアイリスは力強く頷き返してから、そしてライカの目元に浮かぶ涙を袖で拭った。
「分かったわ。あなたを……連れて行くから」
リッカには届かなかった手は今、ライカの手を握りしめている。今度こそ、この手を離したりはしないのだ。アイリスは自分の心の中で、静かに誓った。
これから先、想像していない出来事や感情が、ライカが進む道には待っているのだろう。だからこそ、自分は彼が坂道を転ばずに歩けるように支えてあげたいのだ。
「……お願いします」
ライカはこくりと頷きながら、今度は自分の手の甲で涙を拭った。
もう、彼の瞳に失望の影は潜んでいない。真っすぐと揺るぎない視線を向けて来るライカにアイリスは微かに微笑んでから、立ち上がった。
だが瞬間、それまで穏やかな表情をしていたクロイドが険しい表情へと一変させて、診療所の方へと振り返った。
耳に入ってきたのは、重いものが壁に連続して殴打しているような鈍い音だった。
「この音は……」
「思っていたよりも、追いつくのが早かったようだな」
アイリスの焦りが込められた呟きに対して、クロイドが瞳を鋭く細めながら答える。
どうやら地下への入口となっている場所に、時間稼ぎとして張っていた結界を突き破ろうと攻撃している音らしい。
クロイドは結界をかなり強固に張っているらしいが、それでも破ろうと試みている魔物達の数が多いこともあり、それほど時間は持たないと彼は察しているようだ。
「とにかく、ここを離れましょう」
「そうだな」
アイリス達はお互いに頷き合ってから、診療所から集落へと続いている緩やかな坂道を下り始める。
走りつつも、背後から魔物が迫って来ていないか、ちらりと確認しては足を止めることなく、前へと進んだ。
……魔物の数は……島の人達の人数と同じはず。
地下通路の鉄格子の中へと入れられていた魔物の数は数えきれていないが、それでも多かったのは確かだ。
……元に戻す方法はないならば、この手で……。
アイリスは唇を噛み締めながらも、甘えを振り払うように首を横へと振った。
「っ……! 結界が破かれた……!」
クロイドが発した言葉に反応するように、走っていた者達の速度が少しだけ上がる。
どこに向かっているのかもはっきりと決まっていないが、それでも診療所から離れなければならないということは言わずとも全員が分かっているらしい。
「……もう一枚も、ひび割れ始めているな」
先程、診療所全体を囲むようにクロイドが結界を張っていたが、その結界さえも魔物の攻撃によって突破されそうになっているのだろう。
「……腹を括りましょう」
同じように走っていたイトがその場に響くように声を張った。腹を括る、その言葉が何を意味しているものなのか、聞かずとも察していたアイリスは思わず悲壮な表情を浮かべてしまう。
「このまま逃げていても、いずれは囲まれて持久戦で数に押されるだけです。……戦いましょう」
静かに発せられた言葉に対して、反する声を上げる者はいなかった。いや、上げられなかったというべきかもしれない。その上でイトは自ら名乗り出るように、覚悟を言い放ったのだろう。
誰もが引いて、声に出す事が出来なかった言葉を彼女は背負ったのだ。
「分かった。やるよ」
イトの言葉に同意するように、リアンも静かに頷き返す。明るい表情はそこにはなく、ただ動じることのない、真剣な面差しが浮かんでいた。
クロイドは何も言わないが、それでも彼がやるべきことは了承しているらしく、静かに前を見据えていた。
「ライカ。集落内に開けている場所はありますか」
「学校の運動場があるので、そちらへ案内します」
四人の間に挟まれて走っていたライカは速度を少し上げてから、先導するように走り始める。
誰しもが、抱える想いを沈めて決意しているというのに、アイリスの心はまだ揺れていた。
戦わなければならない。ほんの数時間前まで、人だったものと自分は刃を交えなければならないのだ。
……助けることは──出来ない。
自分にそのような術はない。この手は何かを壊すことしか出来ない手だからだ。
通り過ぎている集落の家々は月が真上に昇っている時間帯だと言うのに、ランプの炎は灯ったままだ。家によっては扉が開いたままの家も見受けられるも、人の気配は全くしない。
自分達の足音と少しだけ遠くから聞こえる潮騒だけが静かに響き、この静寂の異常さを嫌と言う程に実感してしまう。
昼間は島人達によって賑わっていたはずなのに、まるで最初からこの島には人が住んでいないのではと錯覚してしまいそうだった。
「ここです。学校の運動場がこの島では一番広い敷地となっています」
ライカが先導する場所がやがてアイリス達の視界に入って来る。普通の一軒家を二軒ほど連ねた場所がこの島の学校となっているようだ。
学校が置かれている場所を囲むように整えられた砂利が50メートル程の範囲で広がっており、滑り台や鉄棒などの遊具が端の方に設置されていた。
島人達に聞き取りをしていた際には学校の近くまで来ることはあっても、夏休み中は休校しているため誰もおらず、アイリス達がこの島の学校の敷地に入るのは初めてだった。
確かに戦闘をする上で、長剣を得物としているアイリス達にとって広さは大事な条件の一つだ。仲間同士でお互いに距離を取らなければ、接触してしまうため、魔物討伐の際は上手く状況を見極めつつ行動しなければならない。
ただ、問題があるとすれば対峙しなければならない相手が、元は人間だということだ。それだけが、アイリスの中で何かを踏み止まらせてしまうのだ。
「これだけ広ければ、動きやすいけれど……。でも……」
リアンは何かを言葉として零そうとしたが、それでもぐっと堪えて飲み込んでいた。
そして、口を噤んでから、背中に抱えている両手剣の柄を握りしめ、線を薙ぐように引き抜く。彼もイトと同様に魔物と戦うことをはっきりと決意したらしい。
「ライカは後ろに下がっていて下さい。危険なので」
イトは静かにそう告げて、腰に下げている長剣をすっと抜いてから構える。クロイドもすでに両手に魔具である黒き魔手をはめており、戦闘態勢は整っているようだった。
……私は……。
アイリスは震えそうになる手に力を込めて、そして、長剣の柄へと手をかける。
耳を澄ませば、獣が激しく鳴く声がこちらに響いて来ていた。すぐ近くまで、魔物がやって来ている。それなのに──。
……抜けない。どうしても、抜くことが出来ない。
手は確かに柄へと触れている。後はゆっくりと刃を引き抜くだけだというのに、アイリスだけは、それ以上動くことが出来ずにいた。




