甘い誘い
「……あれ? そういえばライカは?」
「先程まで、ここにいたはずだが……」
リアンの言葉にアイリスも読んでいた記録書から顔を上げて周囲を見渡す。ライカの姿はいつの間にか診察室から消えており、その場には見られなかった。
どこに行ったのだろうかと、アイリスが何気なく待合室へと向かうと、甘く重い香りが一気に濃くなった気がして、顔を顰める。
どうして、この匂いが診療所内に漂うのだろうかと疑問に思うよりも先に、室内に変化が起きていることに気付いた。
何故か待合室から外へと通じる扉が大きく開かれており、甘い匂いが風で流れるように室内へと入ってきていたのだ。
「っ……」
この匂いは、自分がセプスに睡眠薬で眠らされる前に嗅いだものと同じだ。彼曰く、森の奥地に生息している幻覚を見せる植物だと言っていた。
そして、その植物を調合したものを薬として島人達の体内に入れることで、この甘い匂いを再び嗅ぐ際に無意識に薬を求める身体になってしまうのだという。
嫌悪したくなる程の甘い匂いがこの場を満たされていることを不思議に思いつつもアイリスが診療所の外へと出ると、そこには地面の上に倒れているライカの姿があった。
「ラ……ライカっ!?」
アイリスはすぐに駆け寄り、ライカの肩にそっと触れる。彼の身体は小刻みに震えており、荒く呼吸を繰り返していた。
まさか、セプスによって投与された薬による中毒症状が出ているのかと思い、アイリスは顔をさっと青くする。
「どうした!?」
クロイド達もすぐにこちらの異変に気付いて、駆け寄って来てくれたが、ライカは何かに耐えるように自身の身体を両腕で抱いていた。
「どうしたの、ライカ……!」
「匂い、が……」
「え?」
「匂いが……この、甘い匂いが……。身体が、求めて……」
「っ!」
アイリスはライカが震える手で指差した方向へと視線を向ける。
診療所の軒先に吊るされていたのは何かがずっしりと入った布の袋だった。
布の袋から零れるように、緑色の雫を地面へと垂らしている光景が目に入って来た瞬間、アイリスはセプスが言っていた言葉を思い出す。
セプスは依存性のある薬を島人達に投与したと言っていたため、無意識に匂いを嗅いだライカがここまで誘われて、中毒症状が出ているのだろう。
だが、彼もそれ以上を体内に入れてはいけないと分かっているらしく、何とか保っている自我で身体を押さえ込んでいたらしい。
アイリスはすぐさま立ち上がり、軒先に垂らされている緑色に濡れた布の袋を吊るす紐を短剣で素早く切り落とした。
アイリスの足元には緑色の艶めかしい物体が核を失ったようにその場に広がっていく。
「クロイド、燃やして!」
「──冷酷な業火!」
アイリスの行動に同意しているのか、クロイドは何も聞かずに、地面の上へと落とされた布の袋に向けて、炎の塊を放った。
かなりの高温によって、布の袋は一瞬にして、中身と共に塵となって消えていく。
それまでその場を満たしていた甘い空気は、原因となる布の袋が消え去ったことで、呼吸がしやすいほどに緩やかになっていた。
「……ライカ、大丈夫?」
短剣を鞘の中へと戻してから、アイリスはライカの傍らに座り込み、顔色を窺う。
ライカはやっと呼吸が出来るのか、何度か深い息を吐いてから、頷き返してきた。
「……すみません。もう、大丈夫ですから」
「本当? 無理をしては駄目よ」
ライカは首を振ってから立ち上がる。その両足は一瞬だけ揺れていたが、それを隠すようにライカは背を真っすぐに伸ばした。
「ご迷惑をおかけしました。僕はもう大丈夫なので……」
「でも……」
「本当に、平気ですから」
語気を強めにライカは言葉を返してくる。これは休むように強要しても、無駄だろうと思い、アイリスも立ち上がった。
「でも、具合が悪くなったら、遠慮せずに言って。いいわね?」
「……はい」
真っすぐと頭を縦に振るライカを確認してから、アイリスはクロイド達の方へと振り返る。
「……これから、どうしましょうか」
クロイドのベルトと腰の間には先程、見つけたセプスの非道さを露見させるための証拠が半分に折り畳まれてから、突っ込まれている。
この証拠をもとにオスクリダ島で見聞きしたことを報告書に書いて、魔的審査課に一緒に提出すれば、セプス・アヴァールは必ず捕らえられて、彼に法的な裁きを下すことが出来るはずだ。
「……とりあえず、戦闘態勢はいつでも取れるようにしておきましょうか」
アイリスの言葉に応えたのは診療所の中から歩いて来る、少しだけ顔色が良くなったイトだった。先程と比べれば足元はふらついておらず、しっかりとした足取りに見える。
「イト、もう立ち上がって平気なの?」
リアンが深く心配しているような表情で、イトへと駆け寄った。
「ええ、何とか起き上がれるくらいには持ち直しました。ですが、まだ本調子ではないので……」
そう言って、イトはリアンに診療所の中へと入るように手招きしている。
「え、何? どうしたの、イト……。──うわっ」
イトに誘われたリアンはそのまま彼女に腕を引っ張られてから、診療所の中へと入り、こちらからでは見えない場所へと連れ込まれてしまう。
「い、イト! 待って……。わっ、まだ、心の準備が……」
「うるさいです」
「んぐっ……!」
どうやら、こちらの視線が届かない場所で二人は何かをやっているらしく、リアンがかなり慌てた様子で抵抗している声が聞こえた。
しかし、イトが無理矢理に何かを実行したらしく、それまで騒いでいたリアンは一瞬にして静まっていた。
暫くしてから、口元を指先で軽く拭いながら、顔色がかなり良くなっているイトが診療所から出て来る。その後ろを両手で顔を覆いつつ、耳まで真っ赤にしているリアンが付いて来ていた。
「うぅっ……。イト、酷いよぉ……。俺、もう、お嫁に行けない……」
「誤解されるような言い方をしないで下さい。少し、魔力を貰っただけでしょうが」
「だからって、無理矢理にするなんて、酷いよぉ。俺はもっと、雰囲気とか、場所とかを考慮したいのに……」
「うるさいです」
一体、この短時間で二人の間に何が起きたというのだろうか。
だが、それを訊ねるのも怖い気がして、アイリスとクロイドは顔を見合わせてはお互いに奇妙な表情を浮かべたまま頷き合うしかなかった。




