揺らぐ背中
急かすような革靴の足音が次第にこちらへと近付いて来る。この空間を反響する音を作り出す足音の持ち主が一体、誰なのかアイリスは分かっていた。
「──アイリス!」
打ち消されたのは、焦燥だった。すぐ近くで自分の名前が呼ばれたことで、クロイド達が目の前まで来ているのだと知った。
「クロイド……!」
だが、自分の瞳に相棒の姿を映すことは出来ない。それでもクロイドの声一つで、心の中には安堵が広がっていた。
自分がイトとライカを守らなければならないと覚悟しつつも、それでもやはり心の中では無意識に助けを求めていたのだ。
「わっ……イト! 大丈夫!?」
クロイドに続くようにリアンの声が耳へと入って来る。恐らく、アイリスの背中で項垂れているイトの姿を見て、驚いたのだろう。
イトは気を失っているのか、リアンが彼女に触れても返事を返すことはなかった。
「俺がイトを運ぶよ。アイリス、運んでくれてありがとう」
「ううん……。イトに魔法をたくさん使わせてしまって……。それで魔力不足になって、倒れてしまったの」
「魔力不足……。本当だ……。イトの魔力が微かにしか感じられない……」
アイリスの背中から、リアンはひょいっとイトを取り上げるように代わりに抱えてくれた。
声しか聞こえないが、リアンの声色は少しだけ悲しみが混じっているようにも聞こえて、イトとリアンに対して再び申し訳なさが沸き上がってきてしまう。
「……あとでイトに魔力供給をしてあげて」
魔力を持っていない自分では与えられないものだ。イトの相棒であるリアンならば、魔力を彼女に供給することが出来るだろう。
「うん、分かったよ。……ん? あれ、ライカ……。その耳と手足は一体……」
しかし、すぐに驚きにより引き攣ったような声が二人分、その場に響いた。
「……どうしてライカに魔力が宿っているんだ」
リアンとクロイドもすぐにライカに異変が起きていると分かったようだ。普通の人間だったはずのライカに獣のような耳と手足が備わっているならば、驚かずにはいられないだろう。
「それにリッカは? あの子の姿が見当たらないみたいだけれど……」
「……」
リアンの質問にアイリスは答えられなかった。いや、どのように答えれば良いのか、分からなかったのだ。胸の奥を鷲掴みされたような感覚に陥り、声が喉の奥から出すことが出来ずにいた。
「……魔物に、なりました」
「え?」
「姉さんは、魔物になったんです」
答えたのはライカだ。その声には後悔と怒りが含まれているように聞こえた。ライカの言葉に絶句しているのか、クロイド達は返事となる声を発することはしなかった。
この目ではっきりと見た自分達でさえ、人が魔物になる光景が未だに信じられないでいる。
実際に見ていないクロイド達には彼らの知らないところで何が起きているのか、状況を聞いただけでは、やはり全てを理解しきれないだろう。
「……詳しくはあとで話すわ。今は……この場所から脱出しないと後ろから魔物が迫ってきているの」
「なっ……」
アイリスは吐き出したいことを押さえつつ、クロイドの声がした方へと視線を向ける。
「クロイド、私に暗視の魔法をかけてもらえるかしら。……真っ暗で何も見えないの」
「分かった。……──夜宿る瞳」
クロイドによって唱えられた呪文が身体に染み込むように効き始めて来る。それまでは視界全体が暗闇に覆われていたが、やがてゆっくりとクロイド達の姿が瞳に映るようになった。これで真っすぐと前に進めるだろう。
「……ありがとう」
「いや。だが……」
クロイドはアイリスの後方へと視線を向ける。
そういえば彼も耳は良い方だった。恐らく、魔物の足音がすぐそこまで近づいているのを感知しているのだろう。クロイドは手袋をはめ直しつつ、静かに呟く。
「念のために結界を張っておくか。──透き通る盾」
アイリスの後方へと右手をかざして、クロイドは結界をその場に形成させていく。透明な壁が通路の真ん中に形成され、アイリス達がいる側と向こう側を隔てていた。
「どれくらいの時間、保つか分からないが破かれる前にこの場所から出るぞ」
「ええ」
「了解!」
リアンもライカもすでに走るための準備は出来ているようだ。
「俺が殿を務めるから、皆は先に行ってくれ」
確かに大きな動きがやり辛いこの洞窟のような場所では、クロイドが一番、戦闘態勢を取りやすいだろう。
何より、クロイドは結界魔法を会得しているので、いざという時には結界魔法を展開してくれるに違いない。
彼の言葉に頷き返した面々はそれぞれ、クロイド達がやって来た道を辿るように走り始める。
何故、クロイド達がこの場所にいるのかということも、どうやって見つけたかという疑問も全ては通路の先にあるはずの出口を越えてみれば分かるだろう。
皆が各々で思っていることはあるだろうが、最優先にするべきことを承知しているのか、誰も口を開こうとはしなかった。
無言のまま、四つ分の足音だけが、揃うことなく空間を響かせていく。その足音は決して軽いものではなかった。
アイリスは自分の目の前を走るライカに視線を向ける。彼の背中は、本当に小さかった。
その小さい背中にリッカが必死に足を踏ん張って、立っていた姿が重なっていく。
「……っ」
滲ませてはいけないと分かっているのに、瞳が揺らいでしまう。ライカは今、何を思っているのだろうか。
遥か後方へとリッカを置いていくことを選択した自分を恨んでいるならば、いっそのこと責め立てて欲しかった。
実際に手を下したわけではなくても、自分がリッカの存在を──殺したのだ。
だが、ライカに訊ねる勇気さえないまま、アイリスは全てを飲み込み続けるしかなかった。




