閉ざされた瞳
イトを抱えて走り始めて、数分も経っていないだろう。それでも、走り続ければ疲労感は次第に増していった。
隣を走るライカはずっと無言のままだ。静かに、真っすぐと前を見据えたまま、彼は走り続けている。息は上がっていないので、体力はまだ残っているようだ。
……この通路は一体、どこまで続いているの。
走り続けて随分と時間が経っているはずだが、それでも出口らしいものは見えない。まるで、終わりが見えない迷路を永遠と巡らされているような気分だ。
「っ……」
瞬間、見えていたはずの視界が暗闇によって、揺らぎ始めてくる。イトにかけてもらった暗視の魔法の効果が解けつつあるのだろう。魔法の効力は使用した者によって、大きく変わって来るものだ。
……まずいわ。目が見えなくなれば、走れなくなってしまう。
一本道の通路とは言え、目が見えなければ走るのは困難に近い。壁を伝いながら、進むことも出来るだろうが、それでは後ろから迫ってきている魔物に追いつかれてしまうだろう。
アイリスは灯り一つない道をじっと見据える。まだ、微かに見えている。どうにか魔法の効力が持つまでに出口に辿り着かなければ──。
その時、背中で項垂れているイトが小さく咳き込んだ。
「イト、大丈夫?」
「……結界が……」
「え?」
「さっき、施した……結界が……破られました」
「……」
低く、小さな声で告げられた言葉を耳に入れたアイリスは思わず唾を飲み込んでいた。
先程、イトによって通路の妨げになるように結界が張られていたが、それが追っ手によって壊されたのだろう。
結界を作った者は、それが壊されてしまえば、感知することが出来ると聞いている。イトはそれを感じ取ったようだ。
「……分かったわ」
もし、このまま魔物に追いつかれてしまうならば、自分が剣を握って、立ち塞ぐしかない。だが、自分は迫ってきている魔物に剣を向けることは出来るだろうか。
……追ってきている魔物は、皆が……島の人達が姿を変えられたことで魔物になってしまったものだと分かっている……。
頭の中で思い出される光景は、自分が投げた刃によりセプスを庇って死んでいく、大きい犬型の魔物の姿だ。鮮血がその場に広がっていき、その上をセプスが靴で音を立てながら歩いていく。
……私は、人を──。
焼き付いて、離れないのだ。だからこそ、いざという時に追っ手である魔物と対峙出来るか不安もあった。
「……音が……近づいてきます」
ぽつりと言葉を発したのはそれまで、無言のまま隣を走っていたライカだ。
「足音が……たくさん、こちらに向かって近づいて来ているようです」
「……もう、そこまで来ているということね」
半分、魔物化していることによる影響なのか、ライカは目だけでなく、耳も良いらしい。
アイリスの耳には届いていないが、ライカがわざわざ報告してくれたということは、余程近くまで魔物が迫ってきているのだろう。
……どうにか、暗視の魔法が保ってくれるといいけれど。
すでに視界は半分ほど、闇に覆いつくされ始めている。そろそろ効力が切れ始めていることは分かっていた。
少しずつ景色は黒へと染められ、それまで影を映していた瞳がぼやけていく。
「っ……!」
アイリスの瞳が、完全に闇によって覆われた時だ。
まるで、爆発と地震が同時に起きたような激しい振動がその場に響き渡って来たのである。
「わっ……」
前方から突然、熱風のようなものが勢いよく吹き付けてきたせいで、アイリスとライカは前に進むことが出来ず、身体の体勢を崩してしまう。それでも倒れずに済んだことは幸いだった。
「何が……」
まさか、地盤が崩れたのだろうかと、考えたくはない想像が駆け巡ってしまう。そうなってしまえば、もう出口を目指すどこではなくなってしまうだろう。
だが、折れそうになる心を保たせてくれたのは、ライカの一言だった。
「……声が……」
アイリスの瞳にはすでにライカの姿は映っていない。ただ、身体で感じるのは道の前方から吹き抜けていった風が熱いものから穏やかなものへと変わったことだけが分かる。
「声が、聞こえます。……これはリアンさんと……クロイドさん……?」
「っ!」
アイリスも耳を澄ませてみる。もはや、自分の五感で自由なのは耳くらいだ。
少し遠くから聞こえる微かな声。
自分が、クロイドの声を聞き間違えるわけがない。
「……クロイド」
ぼそりと相棒である彼の名前を発してしまえば、その後は堰を切ったように自分の声を張る。
「クロイドっ!!」
叫んだ声が、どうか届くようにと祈りながら、アイリスは腹の底から力を振り絞る。
「ここに……ここにいるわ!」
反響するように、アイリスの声は奥へ奥へと続いていく。イトを抱えたまま、一歩ずつ前へと進む。
急かすような足音が応えるように響いて来る。
この音は、後方からの魔物達によるものか、それとも──。
「──アイリス!」
求めるように返って来た声は、確かにクロイドのものだった。それを聞いた瞬間、足に入れていた力が抜けそうになってしまう。
「アイリス、いるのか!?」
「っ……。いるわ! ここに、イトとライカも一緒に……!」
もう、目が見えない自分には居場所を伝えるために叫び続けるしかなかった。ゆっくりでしか前に進むことが出来ないアイリスに気付いたのか、はっとするような声色でライカが訊ねて来る。
「アイリスさん、まさか目が……」
「……ごめんなさい。もう、見えないの。私は壁を伝いながら進むから、ライカだけでも先に……」
「いいえ。……クロイドさん達なら、すぐにここへと来てくれます。それまでは僕がアイリスさんの目の代わりになりますよ」
ライカは一言、失礼しますと告げるとアイリスの右肩に手を添えて来る。
「僕が先導します」
「……ありがとう」
いつの間にか、ライカの口調や態度は大人びたものになっていた。まるで、リッカの真似をしているようにも感じられて、アイリスの胸の奥が鷲掴みされたような気分になってしまう。
「大丈夫です。後ろの追っ手よりもクロイドさん達の足音の方が早く近づいて来ていますから」
「……それなら、良かったわ」
ライカの手が肩に添えられたまま、アイリスは出来るだけ早足で前へと進み続けた。
獣のような手に変化していても、ライカの手は確かに彼のものだと分かるほど優しく温かな熱を持っていた。




