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歯がゆさ

  

 追っ手から逃げるために走り始めて、どれくらいが経っただろう。恐らく、時間としてはそれ程経っていないだろうか、体感では数時間ほど走っているように感じられた。


「はぁっ……はぁっ……」


 荒く呼吸をしているのはアイリスではなく、イトだ。彼女は元々、持っている魔力が小さいらしく、普段は魔法を使うことはないという。

 そんな彼女が先程、数度に渡る魔法を発動させたため、魔力不足による体調の異常が起きているのはすでに察していた。


 それでも、この場所で立ち止まってしまえば、後ろから迫っている魔物に襲われてしまうことは明白だった。


 ……違う、あの魔物は……魔物は、島の人達だったもの……。


 それは分かっている。だが、会話で解決しないことも理解していた。背後から迫る魔物の表情と息遣い、足の速さ、全てを以て感じ取れたのは、自分達は彼らにとって「敵」だということだ。

 魔物討伐課に所属していた自分だからこそ、その感覚は未だに鈍らないでいた。


 アイリスの腕の中のライカはもう、泣いてはいなかった。それでもアイリスにしがみ付くように顔を伏せている。

 この温かさを自分は最後まで守らなければならない。そう願ったのは、自分にライカを託したリッカだ。彼女は自分達の目の前で──魔物へと化していた。


「っ……」


 リッカの細い身体が別のものへと変わっていったあの光景が目に焼き付いて離れないのだ。痛いはずなのに、悲しいはずなのに、それでも彼女が最期まで願っていたのはライカへの想いだった。


 ……リッカ。


 リッカによって願われたことを守るために、自分達はライカを連れて、鉄格子が並べられていた空間から逃げ出してきた。まだ、鉄格子に囚われているリッカを一人、残して。


 きっと、一生悔やむことになるのは分かっている。ライカにどうして姉を救ってくれなかったのかと罵倒されることもあるだろう。その覚悟はすでに出来ている。


 今はただ、この果てしない通路を走り切り、何とか出口となる場所を見つけるのが先決だ。狭い空間では思うように動けないし、何よりイトの体調が心配でもある。


 その時だった。後ろから追いかけて来ていた魔物の一体がアイリス達との距離を一気に詰めて来たのである。


「──ガウッ!」


 一声鳴いて、跳びかかって来たのは犬型の魔物だった。しかし、アイリスの両手はライカを抱えているため、すぐに短剣を引き抜くことは出来ない。


「っ!」


 どうにか避けるしかないと覚った時だ。


 イトが素早く短剣を抜いてから、魔物の頭目掛けて、一閃を薙いだのである。瞬間、暗闇の中で散るように舞ったのは、自分達の血と同じ色の飛沫だった。


 だが、イトは迷うことなく、薙いだ腕を引き戻しながら一撃を与えた犬型の魔物の首に思いっ切り刃を立てる。


「ふっ……」


 完全に死んだことを確認してから、イトは短く息を吐き、そしてズボンのポケットの中から最後の一枚である魔符を素早く取り出した。


「イト!?」


 アイリスも思わず、立ち止まってからイトが起こそうとする行動に目を瞠ってしまう。


「先に走っていて下さい! ……私の少ない魔力では、気休め程度にしかなりませんが、やらないよりはましですからね」


 そういって彼女は短剣を鞘へと戻し、魔符に残りの魔力を注ぎ込み始めたようだ。


「っ……。──透き通る盾(クラルティ・ミューレ)!!」


 彼女は魔力を込めた魔符を闇が漂う空間に思いっ切り叩きつける。瞬間、空間に叩きつけられた魔符はそのまま張り付いたように動くことなく、透明な壁である結界を形成していく。


 それを確認してから、イトはすぐに踵を返してアイリス達の隣に並んで走り始めた。


「恐らく、あの結界は数分ももたないと思います。……魔物が押し寄せてくれば、一気に破かれるかと」


「……ううん。ありがとう、イト」


「いえ……」


 だが、イトの顔色は先程よりも悪くなっていく一方だ。


 ……イトに負担ばかりかけさせて、何て様なの。


 自分の無力さを嘆くのは何度目だろう。そのたびに、自分以外の誰かが深く傷ついていく光景を何度も目にして来た。


 悔しさと歯がゆさでアイリスは唇を強く噛む。もしかすると、血が出ているかもしれないが、それでも抑えきれない自分への怒りをどこに向ければいいのか分からないでいた。


 だが瞬間、隣を走っていたイトの身体が大きく前方へと揺らぎ、そして小さな身体は糸が切れた人形のようにその場に倒れたのである。


「っ……! イトっ!」


 アイリスもすぐに立ち止まり、イトが倒れた場所まで戻ってから、膝をその場に着ける。


「イト!」


 アイリスはライカを片手で抱え直して、倒れているイトの身体にそっと触れる。暗闇でも分かる程、イトの顔色は青ざめており、そして生気が一切見られなかった。


「……先に……」


「え?」


「先に、行って下さい……」


 今にも息が切れてしまいそうな程に、細い声でイトは表情を歪めながらそう言った。それは自分を見捨てて、置いていけと言っているように聞こえて、アイリスの頭は一瞬で熱が上がったように熱くなる。


「何を……。何を言っているの……!」


「少し、休めば……。また、走れますから……。だから、置いていって、下さい……」


 そう言っているイトの表情は、すぐに体調の悪さが戻る気配などなかった。彼女は魔物達を引き寄せる囮にでもなる気ではないだろうかと察したアイリスは強く首を横に振った。


「駄目よ。……私が、連れて行く」


 アイリスは両腕で抱えていたライカをその場にゆっくりと下ろした。


「……ライカ、走れる?」


 ライカの身体はもう震えてはいなかったが、それでも獣の耳と手は戻らないままだ。涙も治まっているようだが、彼の顔にははっきりと涙の痕が残っていた。


「大丈夫です……。一人で走れます」


「そう……。暗闇の中はちゃんと見えているわね?」


 アイリスが穏やかな声で訊ねるとライカはこくりと頷き返した。

 魔法を受けていないにもかかわらず、暗視の力があるということは、やはりその身に魔物の血を受けているからだろうか。だが、今はそのことを考える暇はない。


「私はイトを抱えて運ぶから、ライカは私にしっかりと付いて来てね。はぐれたら駄目よ」


「……分かりました」


 しっかりと頷き返したライカの頭をアイリスは優しく撫でた。その瞬間、彼の表情が一瞬だけ歪んだように見えたのは気のせいではないだろう。

 彼がこの一瞬で何を思ったのか、理解してしまったアイリスは申し訳なさを感じつつも、イトの方へと振り返った。


「イト、居心地が悪いかもしれないけれど、我慢してね」


 そう言って、アイリスはイトの返事を聞くことなく、彼女の両腕を自分の両肩に垂らしてから、イトの身体を背負ってから立ち上がる。


「あなたという人は……本当に……捨て切れない人、ですね……」


 背中から呟かれた声は、今にも消えてしまいそうだった。彼女の身体に一刻も早く、魔力を注ぎ込まなければ体調は悪化する一方だろう。


「……黙っていて。舌を噛むわよ」


「……」


 アイリスがそう告げると、背中で項垂れているイトが微かに笑ったような気配がした。だが、途端に彼女の身体は重くなる。恐らく、気が抜けたのだろう。


 ……早く、ここから逃げなければ。


 自分はまだ、動ける。この洞窟のような空間から、イトとライカを無事に連れ出さなければならない。

 焦りと不安を覚られないように、アイリスは歯の奥を強く噛みながら、静かに耐えていた。

  

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