歌姫
生徒が下校する時間を見計らって、アイリス達は校舎での幽霊捜索を開始した。
この学園の校舎は広く、初等部と中等部がある別棟の三階をクロイドとミレットに見回りしてもらっている。自分の担当はこの高等部がある棟の三階で、端から端までを見落としがないようにと集中しながら歩いていた。
夕方の時間にあまり人は残っていないようで、これなら万が一に魔法を使うことがあっても見られないだろう。
一応、魔力探知結晶を使ってみたがやはり、幽霊に対する反応はなかった。
積極的に人がいない教室や校舎裏を見回ってみるが、情報で聞いている幽霊に会うことはないまま、時間だけが過ぎていく。
校舎の三階の渡り廊下の窓からアイリスは外を見る。もうすぐ日が暮れる。幽霊どころか、魔物が活発になりやすい時間帯へと移り変わっていく。
何が起きるか分からないため、念のために短剣を服の下に隠して持ってきている。出来れば使うことなく無事に調査を終えられればいいが。
ふと、何かが聞こえたアイリスは一瞬だけ立ち止まり、顔を上げた。
「……歌?」
歌か何かの旋律が聞こえたのだ。歌詞は分からないが誰かが歌っているようだ。遠くからでも分かるほどの澄んだ声にアイリスは耳を傾ける。
静かで、透明で、はっきりと耳に残る声はまるでアイリスを誘うようだった。
そこではっと我に返るといつの間にかアイリスは声の主が居るであろう教室の前まで来ていた。どうやら、無意識に音に誘われるように歩いていたらしい。
教室の扉は開け放たれていたため、廊下に響いたのだろう。そこから、何となく教室の中を覗いてみる。
窓際で外を眺めている少女が一人いた。
長い黒髪が夕日で艶やかに光る。どこかの国の言葉だろうか。聞き覚えのない歌詞の単語はまるで呪文のように流れている。
彼女の細い身体から本当に発せられているのかと疑う程の美しい歌声に、アイリスは暫くの間、その場で目を閉じたまま歌声を聞いていた。
しかし、ふっと突然その歌声は止まってしまい、アイリスはどうしたのだろうかと目を開ける。すると、歌を歌っていた少女がこちらを見ており、宝石のように澄んだ緑の瞳と視線が重なってしまう。
「あら……。聞かれちゃったわね」
「あ……。すいません、勝手に」
「いいのよ」
さして気にする風でもなく、少女は笑みを浮かべる。三年生の教室に居るということは、三年生だろうか。動くたびに長い髪が揺れる。
近づいてくる彼女は何かに気づいたようにアイリスを見て小さく笑った。
「もしかして、一年生のアイリス・ローレンスさん?」
「え? ええ、そうですが」
まさか、三年生にまで自分の悪評が出回っているのだろうか。アイリスが眉を寄せて困った顔をすると、彼女は首を横に振った。
「成績優秀な特待生なら、生徒の誰もが知っているわ。私も特待生なのよ」
「あ、そうなんですね……」
皆が皆、自分を敵として見てくるわけではないようだ。目の前にいる少女からは敵意が全く感じられず、アイリスは相手に気付かれないように少しだけ胸を撫で下ろした。
「でも、よく休みがちだって聞いたわ。お身体が弱いのかしら?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
教団に所属しているため、任務によって休みがちだという本当の理由を答えられるわけもなく、アイリスは曖昧に言葉を濁しながら誤魔化すしかなかった。
「ふふっ、さぼりたくなる? まぁ、その気持ちも分からなくはないわ。特に暖かい陽気だと、木陰で昼寝でもしたくなるわよね」
口元を手で隠しながら笑う姿も優雅だ。どこかのお嬢様なのかもしれないと思ったが、鼻につくような様子は感じられない。
こういう人を淑女と言うのだろうか。
「さて、もうこんな時間だわ。早く帰らないと、悪い人に連れ去られてしまうわね」
意味有りげな微笑を浮かべて彼女は机の上に置かれていた鞄を手に持ち、アイリスの横を通り過ぎる。
「それじゃあ、またね、アイリスさん」
右手を挙げて、ひらりと蝶が舞うように少女はアイリスの横を通り過ぎる。
ふわり、と何かの花の香りのようなものが鼻先をかすめた。
「……」
アイリスが暫くの間、通り過ぎ去っていった少女の後ろ姿を見ていると、視線の先の廊下の角を曲がってミレットとクロイドが戻ってきた。
「アイリス?」
呆けていたのか、名前を呼ばれてはっと我に返ると、自分の顔を覗きこむ二人がいた。これほど近くにいたのに、気付かなかったとは不覚である。
「え? あぁ、二人共……。向こうはどうだった?」
「どうだった、じゃないわよ……。……居なかったわ」
「俺も出来るだけ人気が無いところを探したが、見つからなかった」
「そう……」
それでも、ぼんやりとしたままのアイリスの肩をミレットは軽く叩く。
「何? どうかしたの?」
「え? あ、さっき凄く歌声が綺麗な人がいたの」
「今、そこですれ違ったけれど、ラザリー・アゲイルのこと?」
やはりミレットは知っていたらしい。その名前は一体、誰だと問うような顔をしているクロイドにミレットは先程会った女生徒の事を話してくれた。
ラザリー・アゲイルはこの学園の特待生の一人で、美しい黒髪と透き通るような歌声を持っており、皆が一度は振り返る程の美貌の持ち主らしい。
「……」
アイリスはもう一度頭の中で思い出す。耳に残る声、艶やかな笑み。
だが、その裏に何かあるような気がしてならないのは何故だろうか。
それでも、任務中である今の自分が意識することではないだろうと特に気にすることなく、アイリスは話を元に戻す。
「……今日はもう帰りましょう。一度本部へ戻って、策を練り直さないと」
アイリスの意見に二人も同意するように頷く。幽霊の捜索についてはもう少し、具体的に対策を練らなければならないだろう。
そして、他の課よりも早く見つけなければと何故か思っていた。




