欲持つ者
「イト、身体に違和感はない?」
「今のところは。……注射の痕も身体に見当たらないので、セプス・アヴァールが持っていた注射器の薬を体内に入れられてはいないと思います」
「そう……。それなら良かったわ」
セプスの実験がどういうものなのかは詳しく聞いていないが、それでもこの洞窟のような場所に鉄格子が並び、更に魔物らしきものが多く捕らえられている時点で、彼が行っていることは良い実験ではないのは確かだ。
「……早く、ここから逃げなきゃ」
一言に全てを込めるように吐き出し、アイリスは持っている短剣の柄を握りしめ直した。
短剣の刃先をアイリス達が捕らえられている鉄格子の唯一の出口である鉄製の扉に向けて、隙間をこじ開けるように挿し込んでは切り裂かんばかりに傷を入れていく。
それでも鉄製の扉の鍵が開くことはなく、金属音が擦れ合う不快な音だけが響いていた。
「アイリスさん、落ち着いて下さい。……魔法で、開けましょう」
「……」
アイリスが振り返ると、魔符を握りしめつつ、強張った表情をしているイトが居た。
「魔符は残り4枚あります。3枚ほど使えば、この鉄製の扉を何とか開けられるかもしれません」
一種の賭けだと思っているのかもしれない。イトは真剣な表情で鉄製の扉を凝視していた。
「……あまり、頼ってはいけないと分かっているけれど……お願いするわ」
アイリスは短剣を引き戻してから、場所をイトへと譲る。イトは魔力を込めているのか、魔符を両手に持ったまま、深呼吸しながら集中しているようだ。
アイリスはその間、周囲にリッカ以外の誰かがいないか見渡してみる。魔物らしきもの達の吐息が微かに聞えるだけで、他には何も耳に入っては来なかった。
準備が出来たのか、イトは鉄製の扉に二枚分だけ魔符をゆっくりと貼り付けていく。
ちらりとイトの顔を見ると、多くの魔力を魔符に込めたことが影響しているのか、先程よりも気分が悪そうな表情をしていた。
「……大丈夫?」
「ええ、平気です。……でも、普段から魔力を使う鍛錬に力を入れておけば良かったと少し後悔しています。まぁ、弱音なんて今更ですが」
イトは気にしなくて構わないと言うように呟いてから、三枚目となる魔符を手元に構えた。
──その時だった。
かつり、かつりと通路の奥から、はっきりとした足音がこちらへと近付いてきたのである。
「っ!」
アイリスとイトは同時に靴音がした方へと視線を向ける。通路の奥に見えたのは、その場を照らしながらこちらへと向かってくる灯りだった。
恐らく、ランプか松明の灯りなのだろう。それがゆらりと動いては、通路の壁に縦長い一つの影と横に少し伸びている大きな影を映していた。
通路の角をゆっくりと曲がって来たその影の持ち主を見て、アイリスは舌打ちをしそうになる。
そこにいたのは先程よりも少し薄汚れた白衣を着ているセプスと大型犬よりも一回り大きい身体を持っている獣だった。
しかし、獣の背中に乗せられている一人の少年の姿を見つけたアイリスは思わず息を引き攣ってしまう。
「ライカ……!」
青白い表情をしたまま、獣の上にぐったりと項垂れているのはライカだった。その瞳は閉じられており、そして口からは血が零れている。
鉄格子に入れられたこの場所からでは、ライカが息をしているのかは分からなかった。
「──おや、もう起きてしまったのか。教団の人間は睡眠薬が効きにくいんだな」
悠々とした表情でセプスはランプの灯りでアイリス達を照らすように向けて来る。彼の笑みは獲物を見定める蛇のように見えて、アイリスは思いっきり顔を顰めた。
「ふむ、縄を自ら断ち切るとは……。君達はあの男達と比べて、それなりに荒事には慣れているようだね」
どこか感心するような物言いだが、セプスの口調は明らかにアイリス達を見下しているものだった。
「……ライカは無事なの?」
本当なら、鉄格子の間から短剣を投げて攻撃したいところだが、それでは攻撃を避けられた際に自分の得物を相手に取られてしまう可能性があるため、その決断をすることは出来なかった。
アイリスは低い声でセプスに訊ねると彼は従うように引き連れてきていた獣の上で目を閉じているライカの背中を軽くぽんぽんと叩きながら、嘲りの笑みを返してくる。
「今のところは生きているよ。……まあ、人間として死ぬかどうかは実験の結果次第だけれどね」
「……どういう意味よ」
「言っているだろう、結果次第だって。……ライカはまだ様子見が必要みたいだな」
最後に独り言を呟いてから、セプスはランプを足元へと置いた。
そして、白衣のポケットから鉄製の鍵が付いた鍵束を取り出して、アイリス達の隣の鉄格子の扉へと近付いてから、鍵穴へと鍵を差し込んだ。かちゃりと鉄が掠れる音が響いたと同時に、鉄製の扉が不快な音を立てながら開く。
「こっちにライカを運んでくれ」
セプスは連れ添っていた獣に声をかけると、その獣は扉が開けられた鉄格子の中へと入っていき、そしてその場にライカを下ろしてから、扉の外へと出た。
まるでしっかりと躾けられた犬のように見えるが、恐らくこの獣も魔物に近い生き物なのだろう。イトに視線でこの獣は魔物かと訊ねると彼女は無言のまま小さく頷き返してきた。
大型犬よりも大きい魔物が鉄格子の外に出たのを確認してから、セプスは鉄製の扉の鍵穴に鍵を差し込んで、閉めたことを確認する。
アイリスは隣の鉄格子に入れられたライカに何とか手が届かないか、限界まで伸ばしてみるが指先さえ届くことはなかった。
それでもライカの背中はゆっくりと上下に動いているため、息をしていることだけは見て取れる。
「ライカ! ……ライカ!」
名前を呼んでみても、ライカから反応は返ってこない。
「ふっ……。イグノラントのローレンス家当主は他人に対して本当に健気だねぇ」
面白いことに対して、笑いが治まらないと言った表情でセプスは低く笑い声を立てつつ、今度はリッカが倒れている鉄格子へと近づいて行く。
「……! リッカに近づかないで!」
「今更、全てが遅いというのに、めげない子だね、君は」
アイリスの制止に耳を貸さないまま、セプスはリッカが入れられている鉄格子の前に立ち止まると鍵束の中から一つの鍵を掴んで、鍵穴へと差し込んだ。
鍵が開く音とともに、アイリスの中の何かが焦燥を駆り立てていく。
「……っ! セプス・アヴァール! あなたは一体、何をしようとしているの!」
アイリスは声を張れるだけ張って、リッカが入っている鉄格子へと足を踏み入れていくセプスに対して叱責するように問いかける。
「……僕はね、この世でたった一つ、喉の奥から手を伸ばす程に欲しいものがあるんだよ」
こちらに背を向けていたセプスが顔だけ、アイリス達の方へと少し振り返る。
「知識も、金も、名誉も、何もかもがこの手にあるというのに、僕は生まれた時から、それを持つことを許されていない。ああ、なんて嘆かわしい身なのだろう」
まるで演説するように言っているが、アイリスからすればセプスは自分の言葉に酔っているように聞こえていた。
「だが、持っていなければ、持つために努力すればいいという考えに至った。……それがこの研究だよ。あと少し……あと少しで、完成するんだ」
その声色に冷たさを感じたアイリスは背筋に刃を突き立てられているような感触がなぞった気がした。
「いつも、いつも最後の段階で失敗してしまう。だが、微調整は済ませた。やることは全てやった。あとは……」
そこでセプスは一度、言葉を噤んで、そして白衣のポケットから一本の注射器を取り出す。
「そう、あとはただ、結果を待つだけなんだよ」
セプスは愉快げな笑顔を浮かべているというのに、眼鏡の奥で光る瞳は氷のように鋭く、途轍もなく冷めて見えた。




