魔符
鼻の奥を突き刺してきたのは、嫌悪感を抱く匂いだった。その匂いと自分の身体に触れている何か冷たい物質によって、アイリスは意識を覚醒していく。
「んっ……」
小さく身じろぎしようとしたが、それでも身体は自由に動くことが出来ず、奇妙に思えたアイリスは瞳をゆっくりと開けていった。
目を開けば、見えたのは暗闇。夜目が利くとは言え、灯り一つない場所にいるらしく、自分の姿さえ見えなかった。
……ここは。
気付けば、動けないようにと自分の手足が縄か何かで縛られていた。動かそうとしても、かなりきつく縛られているため、動く事は出来ない。
暗闇の中に自分以外の何かがいるかを確認するために、意識を集中しようとしているとすぐ近くから、誰かが息をした音が漏れ聞こえた。
「……アイリスさん、気が付きましたか」
「っ!」
細い声が聞こえたアイリスはすぐに、声の主がいる方向へと視線を向ける。向けてもそこに影らしきものが見えるだけで、はっきりと姿が瞳に映るわけではなかった。
「……イト? そこにいるの?」
「ええ」
アイリスが声量を抑えながら訊ねると、聞き慣れた抑揚ない声色が返って来る。だが、イトがすぐ傍にいることに安堵するよりも前に、自分がセプスの薬によって眠らされた直前を思い出してしまう。
「ねえ、身体は大丈夫なの?」
「平気ですよ、怪我はしていません。それに例の植物の匂いを嗅いでしまいましたが、深く嗅がないようにしていたので、意識はわりとはっきりとしていますし。……しかし、お互いに両手足を縛られているようですね」
イトの姿をはっきりと確認することは出来ないが、自分と同じように彼女も手足を縛られているらしい。
「……セプス・アヴァールは?」
「私の目が覚めたのはつい、先程だったので……」
「そう……。あっ! リッカとライカは……!」
「一応、名前を呼んでみたのですが、返事はありませんでした。同じように眠らされているのか、もしくはここにはいないのか……」
「……まず、ここがどこなのかも分からないわね」
「冷たい床……と言うよりも、岩の上に寝かされているような感触がします。……ですが、家の中にしては床に凹凸がありますし……」
お互いに見えないまま、ここがどこかを探るべく、縛られている手の指先で辺りを何となく触ってみる。
「……見えないと、何も出来ないわね」
「あ、そうだ……」
そう言って、イトは暗闇の中で何やらごそごそと動き始める。
「んっ……。届かないか……」
「どうしたの?」
「いえ、履いている靴の底に魔符を数枚ほど、念のためにと仕込んでいたことを思いだしたので取ろうと思ったのですが……。やはり、手が届かなくって」
「それなら、私が代わりに取りましょうか?」
一人で取れない位置にあるならば、二人で協力すればイトの靴を取ることは可能だろう。
「宜しいのですか? ……あまり、人に足先を向けるようなことはしたくはないのですが……」
「今はそんなことを言っている場合じゃないもの。……えっと、ちょっと待ってね。お互いの位置を確認するから」
「……すみません、ありがとうございます」
アイリスは床の上を縛られたままの状態で何とか移動しようと、イトの声がした方へと転がってみる。
とんっとお互いの身体が軽くぶつかったことを確認してから、アイリスはイトの足元がある方へと手を伸ばした。
指先がイトの身体に触れたが、どの辺りなのかは分からない。
「……今、ふくらはぎ辺りなので、もう少し下ですね」
「分かったわ」
触れられてくすぐったいだろうに、イトは平然とアイリスの指先が触れている位置を教えてくれる。
アイリスはイトの指示に従うように自分の手を少しだけ下の方へと伸ばしていった。こつりと手が触れたのは革製の靴だ。
「右と左、どちらに魔符を仕込んでいるの?」
「両方に仕込んでいますので、どちらでも構いませんよ」
それならば、手が触れた方の靴でいいだろうと、アイリスは縛られた手でイトの靴を脱がそうと試みる。
「……」
イトの靴は男物の革靴で、靴紐でしっかりと固定する靴ではなかったため、思っていたよりもすっぽりと脱がせることが出来た。
「靴を貸して下さい」
イトの言葉に応えるようにアイリスは手に取った靴を背中の後ろで手を縛られているイトへと渡そうと、少しずつ身体を移動させる。
まるで芋虫が動いているような状態だが、今は笑うところではない。この暗闇から何とか逃げ出し、リッカとライカの無事を早く確認しなければならないからだ。
アイリスは手に取ったイトの靴を本人の手へと持たせる。擦れるような音が聞こえたとともに、用無しとなった靴が床の上へと落ちた音がした。
「……アイリスさん。今から魔法を使うので、少しだけ離れていて下さい」
「ええ。……気をつけてね」
イトは彼女の腕を縛っている縄を魔法で強引に切るつもりらしい。アイリスは身体を再び冷たい床の上で転がしてから、イトとの間に距離を取った。
「行きますよ。……この刃は風。いかなるものも通し、切り裂く凍風となれ。──風斬り」
ぶわりとその場に風が発生し、アイリスの髪を少しだけ揺らして通り過ぎていく。
そういえば、イトは基本的に剣術だけで魔物討伐を行っているため、彼女が魔法を使う状況に初めて居合わせたかもしれない。
「……おかげで無事に縄を切ることが出来ました。ありがとうございます」
どうやら魔法で縄を切ることが出来たらしく、先程よりも少しだけ安堵した声が暗闇の中に響いた。
「そう、良かったわ。でも、イトって魔符も扱えるのね」
「……主な武器は長剣と短剣だけですよ。私、魔力を持っていると言っても少量なので、多く魔法を使うと魔力の使い過ぎで倒れてしまうんです」
そう言いつつも、イトは自由になった上半身を動かして、次の行動へと移っているようだ。
「なので、魔法が必要な状況において使えるようにと念のために魔符を持っているに過ぎないんですよ。使える魔法も多くないですし」
「そうだったの……」
「ちょっと待って下さいね。今、短剣を取り出しますから。……こういう時、普段から服の下に武器を仕込んでおくと便利ですよね」
イトは軽く会話をしつつも、自身が隠し持っていた短剣を使って、足を縛っている縄を切っているのか、何かを遮断する音がその場に響いた。
「あら、イトも服の下に仕込んでいたの。私も持っているけれど、太ももに下げているから、縛られた状態だと短剣が取れないのよね……」
「やはり、隠し武器は常に装備しておくべきですよね。──よし。では、今からアイリスさんを縛っている縄を切りたいと思いますが、宜しいでしょうか」
「ええ、お願いするわ」
すでに自由の身となったイトがアイリスの腕を縛っている縄へと手を添える。
「……出来るだけ、怪我をさせないように気を付けますが、刃先が触れてしまったら、すみません」
「構わないわ。今は手足が動けるようになる方が先決だもの」
アイリスは気にしないと言わんばかりに軽く答える。イトからは深い呼吸が聞こえ、そして彼女が持つ短剣がアイリスの腕を縛る縄へとすっと線を入れるように引かれていく。
ぶつりと千切れた音がしたと同時に、手を縛っていた縄が解けて、自由が戻って来た。
「ありがとう、イト」
「いえ。足を縛っている縄も切っておきますね」
イトはそのまま、アイリスの両足を縛っている縄にも刃先を入れてから、縄を両断していく。
縄が切れたことで、足にも自由が戻って来たため、アイリスはさっそく、自身のふとももに下げている短剣を素早く抜いてから、どんな事態にも対応出来るようにと備えることにした。




