恐れていたもの
アイリス達はさっと目配せをして、リッカが見たという獣は一体何だと思っているのか訊ねるべく、お互いに視線だけで問いかけてみる。
それぞれの表情に戸惑いが見られるものの、やはり人から獣へと姿を変えるものなど、「普通」の考えでは答えに辿り着かないのは分かっていた。
そうなると、可能性としてはやはり、魔物の存在が候補として挙がって来る。
……リッカの話を聞く限り、人が姿を変えた例の獣は魔物にしては、何か違う気もするけれど、思い当るものなんてそのくらいしかないわ。
それでも、人が獣になるなど、聞いたことなどないし、通常ではありえないと思えるものだった。
だが──例外はいる。
アイリスは静かにクロイドに視線を移すと、彼もアイリスの言いたいことが分かっているのか、頷き返した。
クロイドは魔犬という魔物によって、とある呪いをかけられている。その呪いは月日とともに、人から魔物へと存在を変えるものなのだ。
リッカが話している状況がクロイドと同じだとは思えないが、それでも似たような例があるのではとお互いに思っているようだ。
アイリスは視線をリッカへと戻す。だが、彼女が怯えている理由は今、話したこと以外にもあるらしく、表情は翳ったままだ。
「……人が獣になった時、注射器を持っていた人は呆れたような声で呟いたのです。──ああ、これも失敗か、と」
「……」
「失敗、失敗だと喚いて、彼は……愉快げに笑っていました。そして、杭に繋がれていた、別の獣の縄を刃物で断ち切ったのです」
その時の光景と、声を思い出しているのか、リッカは更に身体を震えさせていく。止めることを忘れてしまったように震える身体を支えるために、アイリスはリッカの両肩を手で優しく包み込んだ。
彼女の身体は少しだけ冷えており、その冷たさに温度を与えるようにアイリスは手に力を込めていく。
「自由になった獣は……黒毛の獣の喉へと勢いよく噛み付きました。肉食の動物が、草食の動物を餌として食べる瞬間とでも言えばいいでしょうか……。あまりにも生々しくて、私は……」
リッカはそこで、言葉を止めて、口を押えた。
人が獣になった。そして、その獣を別の獣が──食べたのだ。その瞬間を思い出しているのか、リッカは何度も嘔吐いていた。
アイリス達は魔物という生き物を知っているため、血生臭いことに対してある程度の免疫は付いているが、リッカはまだ14歳で、ただの女の子だ。苛烈過ぎる光景を見て、平気なわけがないだろう。
「無理しなくて、いいのよ」
「……いえ、最後まで話します。今、話さないと……」
アイリスが気遣うように囁くが、リッカはすぐに首を横へと振った。そして、目の前に置かれていたお茶が入ったカップをあおるように飲み干してから、更に言葉を続ける。
「人が獣になったものは……あっという間に形がなくなっていました。すると、その人は生き残った獣に向かって、こう言ったんです」
一度、そしてもう一度深呼吸してから、リッカは秘密を零すように言葉を吐いた。
「──君の手によって人が消える瞬間を実感した気分はどうだい? 君が知りたかった答えだよ……」
「っ……」
聞いたことがある口調で、リッカは彼女の耳に入れていた言葉を思い出しながら呟いていく。
「──そして、君もまた、人を消す『神様』となったんだ」
何かを押し殺すように呟かれるリッカの言葉は、一体誰が発したものなのだろうか。そして、その問いをリッカに訊ねてもいいのか、躊躇ってしまう。
リッカは一度、目を伏せてからそして再び、ゆっくりと開いていく。
「その後、私は彼の言葉と声から逃げるように、来た道を走って逃げることにしました。……今度は、自分がさっきの獣に食べられてしまう。いや、それどころか、自分も獣へと変えられてしまうのではないかって、恐ろしくなったんです」
先程よりも、少しだけ落ち着いたのか、リッカの身体はもう震えてはいなかった。アイリスは彼女の両肩においていた手をそっと離していく。
「……翌日、念のために確認してみると、島の人が一人、行方不明になっていました。神隠しに遭ったんだろうって、大人達は特に気にすることなく話していました。……でも、その人が昨夜、自分が見てしまった、獣へと姿を変えた人だって知った時、私は……何も知らないふりをしてしまったんです」
リッカは顔を両手で覆い、自分を責めるように深く、長く息を吐く。やがて落ち着いたのか、彼女はすっと顔を上げたが、泣いてはいなかった。
「もちろん、黒毛の獣を食べた獣が神様で、神様が人を食べたなんて、そんなことを誰かに言えるわけがないです。誰にも信じてもらえないでしょうし、何より……あの人に私が神様を見たことを知られてしまえば、次は……」
リッカは言葉と一緒に息を飲み込み、一瞬だけ小さく震えた。
「なあ、リッカ……。さっきから言っている、その獣と一緒にいた人間は、君が知っている人物なのか?」
アイリス達が聞きたかったことを代弁するようにクロイドが穏やかに訊ねる。リッカは少し顔を苦しそうに顰めて、そしてゆっくりと頷き返した。
「そうですよね、ずっと濁したままでは……せっかくお話する意味がなくなってしまいますよね……」
申し訳なさそうにリッカは薄く苦笑してから、ふっと顔を真顔へと変える。誰もがリッカへと視線を向けて、彼女から紡がれる言葉を待った。
「……あの人が私のもとへと訪れるたびに、彼に対する恐れは日に日に増していきました。ああ、この人は私とライカを狙っているんだって、そう思ったからです。そして、今日……私が彼に抱いていた疑念が、確証へと変わりました」
一つ一つ、何かを恨むように静かに吐かれる言葉をアイリス達は固唾を飲みながら聞き入っていた。
「彼は私達を心配して、様子を見に来ているわけじゃない。私達の……様子が、変わっていないかを確認しに来ているって、分かったんです」
呼吸をするたびに、リッカの中の何かが擦り切れて行っているのではとさえ思えた。それでも、彼女は全てを出し切ろうと言葉を続ける。
「私がずっと恐れていたもの……いえ、恐れていた人は……。──セプス・アヴァール。診療所の先生です」
静かに、穏やかに、だがはっきりとした声で、リッカは言葉を発した。
それを告げてしまえば、もう、後戻りは出来ないのだと覚悟しているような横顔は今まで見た中で、一番力強く、瞳は爛々と光っているように見えた。




