水分補給
明日の早朝に、森に向けて出発するため、アイリス達は昨日よりも早めに就寝することにした。
だが、まだ眠ってから数時間も経っていないはずなのに、アイリスは目が覚めてしまっていた。何気なく枕元にあった懐中時計を薄暗い中で目を細めて見てみる。
時間は夜の9時を過ぎたばかりで、いつもならこのくらいの時間に夜の任務を始めようとしているな、と何となく思いつつアイリスはベッドの上で寝返りを打つ。
顔の方向をそれまでとは反対の方向に向ければ、同じベッドの上で静かな寝息を立てながら寝ているイトの顔が50センチ程、先にあった。
普段は無表情で感情が読めないイトだが、彼女は童顔であるため、寝ている時は起きている時よりもさらに子どものように見えた。
……ああ、そうだったわ。一緒の部屋を借りていたわね。
寝ぼけてはいないが、普段とは違う環境に一瞬だけアイリスは思考が止まっていた。教団では1人部屋の寮生活をしているため、誰かと一緒の部屋で寝ることの方が少ないのだ。
ふと、身体を起こしてみれば、開けっ放しにされている部屋の窓から、さらさらと入って来る夜の風が身体に触れては消えていく。
暑い季節だが、この島の夜は思っていたよりも過ごしやすいため、特に寝苦しさを感じることなく安眠出来ていた。
……水でも貰ってこようかしら。
寝苦しくなくても、喉は渇くものだ。脱水症状を起こさないためにはこまめに水分を摂ることが重要であるため、アイリスは寝ているイトを起こさないように注意しながら、ベッドからそっと降りた。
だが、部屋の扉を開く前、とあることに気付く。
……扉の隙間から光?
廊下側から光が漏れているらしく、扉の隙間から光の一線が出来ていた。廊下に繋がる部屋で灯りがある場所は調理場がある部屋のランプだけだ。
もしかすると、寝る前にリッカが消し忘れたのか、もしくは他の誰かが起きているのだろうか。
「……」
どちらにせよ、水を飲みに行くのだから、確認しておいた方が良いだろうとアイリスは扉を静かに開けてから、廊下へと出た。ゆっくりと扉を閉めてから、音を立てないように廊下を歩き始める。
こっそりと歩くことには慣れているが、どうやら廊下の床が古いためか、歩みを進めるたびに小さく軋んだ音が立ってしまう。
「──誰か、いるの?」
どうやら廊下の先の部屋にまで床が軋む音が聞こえたらしく、優しく訊ねる声が降って来る。アイリスは静かに歩くことを諦めて、すっと廊下の角を曲がって、声の主の前に姿を現した。
「あら、アイリスさん……。眠れませんでしたか?」
皆が食事をする部屋の椅子に座っていたのはリッカだった。彼女が部屋を使っていたため、ランプの灯りが廊下まで届いていたらしい。
「ちょっと、目が覚めたから水でも貰おうと思って」
「あ、それならお注ぎしますね。私もちょうど喉が渇いたなと思っていたところなので」
アイリスは自分でやろうと思っていたが、リッカがすぐに椅子から立ち上がり、二人分のカップを用意し始めたため、口どころか手を出す暇さえもなかった。
「どうぞ椅子に座っていて下さい」
「……ありがとう」
リッカの気遣いを受けることにしたアイリスは彼女の隣の席へと腰掛けることにした。待っている間、特にすることもないため、何となく周りを見渡してみる。
「……」
食事を摂る際に使われる大きな台の上には裁縫の道具が置かれており、裁縫の材料だと思われる色違いや柄違いの布が見やすいようにと綺麗に並べられていた。
リッカが内職でもしているのだろうかとアイリスが首を傾げていると目の前に水が注がれたカップが置かれる。
「ありがとう、リッカ」
「いえ」
二人で静かにカップを傾けつつ、水で喉を潤していく。やはり、意識はしていなくても喉は渇いていたようだ。
暫くの間、無言の状態が続いたが、それでも話しかけるための話題が見つからず、アイリスは水を飲み続ける。
このまま言葉を発さずに部屋に戻るのもいかがなものかと思っていると、視界の端に映っていたリッカがふっと顔を上げた。
「……明日、本当に森へ行かれるんですよね」
かなり心配しているのか、再度訊ねて来るリッカに対してアイリスは首を縦に振った。
「この島へ来た大きな目的はサディクさんを捜すことだもの。私達はそれなりに鍛えているから、いざとなれば自分の身を守れるし、森の中に獣が住んでいても対処出来る術を持っているわ。……それでも、やっぱり心配かしら?」
「……はい」
リッカは眉を少し下げつつ、下から見上げるようにアイリスに潤んだ視線を向けて来る。
「森は本当に危険なんです。明るい時間とは言え、入ることはおすすめ出来ません」
本音を言えば、リッカは自分達に森の中へと足を踏み入れて欲しくはないのだろう。だが、森に何が潜んでいるのか分からないことは、アイリス達だってよく理解していた。
「心配してくれて、ありがとう、リッカ」
アイリスは水が注がれたカップを一度、台の上へと置いてから、リッカの方へと右手を伸ばす。そして、伸ばした右手をリッカの頭に載せて、優しく撫でた。
「あなたは本当に優しいのね」
「……」
アイリスの突然の行動に驚いたのか、リッカは目を丸くして、ぽかりと口を開けたままだ。
「あっ……。ごめんなさい、つい……」
リッカの表情が変わったことに気付いたアイリスはすぐさま右手を自分の方へと引っ込める。彼女を子ども扱いしたわけではないが、何となく撫でてしまったのだ。
機嫌を悪くしていないか、ちらりとリッカの方に視線を向けると彼女は丸くしていた目を何度か瞬きして、そして突然噴き出すように笑ったのだ。
「ふっ……。ふふっ……」
リッカは声を抑えながら楽しげに笑ったため、アイリスは彼女を不愉快にさせていないことに対して安堵の溜息を吐いた。
「すみません、人から頭を撫でられたことが、あまりにも久しぶりだったので、驚いてしまいました」
小さく笑って、そして目元に浮かんでいた涙を指先で軽く拭ってから、リッカは穏やかに微笑む。
「アイリスさんはお姉さんみたいですね」
「……まあ、弟と妹がいたから姉だったことに間違いはないけれど」
数年前までは自分も三人姉弟の一番上だった。今はもう、家族がいないため、姉のようだと言われるとくすぐったさと寂しさが混じってしまう気がする。
もちろん、リッカにそのことを話せば、すでにいない家族の話に対して優しい彼女ならば気に病んでしまうだろうと思ったため、アイリスはそれ以上の言葉を綴ることはしなかった。
アイリスは表情を覚られないようにと、カップを再び手に取って水を口へと含めつつ、水の程よい冷たさを実感しながら懐かしさと寂しさを気のせいだと滲ませていった。




