肘鉄
オスクリダ島まで運んでくれた船長の男性にお礼をもう一度言ってから、船着き場から船が出航していくのをアイリス達は見送っていた。
船酔いは先程よりも落ち着いてきたことで、アイリスはやっと視線を周りに向ける余裕が生まれたため、到着したばかりの島を何気なく見渡してみる。
船着き場には数隻の小型船が停泊しており、波によって揺れていた。だが、海周辺には人気がほとんどないため、鳥が高い声で鳴いているのだけが耳に入って来る。
……これが、オスクリダ島。
視線を少しずつ奥へと移していく。島人達が住んでいると思われる集落には十数軒の家がぽつりぽつりと建ち並んでおり、その更に奥には緑が広がる景色が見えた。
……あの森の深い場所に「迷える森」があるのね。
今回、行方を探しにきたエディク・サラマンがあの森の奥に入ったのかもしれない。
とりあえずは、彼の目撃情報などを島人達から集めて、そしてしっかりと準備をしてから森の奥へと足を踏み入れた方がいいだろう。
アイリスがそんなことを密かに考えていると、遠くへと進んでいく小型船を見送っていたリッカがアイリス達の方へと振り返った。
「改めまして。私、リッカ・スウェンって言います」
丁寧に頭を下げて、笑みを浮かべるリッカは先程、一瞬だけ見てしまった横顔とは一変して、明るい少女のものになっていた。
「俺はリアン。こっちがイトで、そっちの二人はアイリスとクロイドだ」
リアンがまとめて四人を紹介してくれたため、アイリス達はリッカに軽く頭を下げるだけに留めておいた。
リッカは名前と顔を確認するように、四人を見渡して、それぞれを一致させることが出来たのか、頷き返した。
「はい、宜しくお願いします。……では、さっそくですが、私の家の方にご案内しても宜しいですか?」
「うん。お願いします」
今からリッカの家へと案内してくれるらしく、それぞれが持参してきた荷物を手にしてから、リッカの後ろを付いていくように歩き始める。
自分達が出発したナルシス港と同じ海で繋がっているというのに、オスクリダ島で感じる空気や海風は別物のように思えた。
「……アイリス、もう気分は大丈夫なのか?」
クロイドが他の三人には聞こえないくらいの声量で、こっそりとアイリスに具合の様子を訊ねてくる。
「歩けない程までじゃないわ。船に乗っていた時と比べれば、随分と良くなった方だし」
「そうか……。だが、無理はするなよ?」
「ええ」
心配するようなクロイドの瞳に対して、アイリスは微苦笑を浮かべつつ返事をする。
「――皆さんは、この島には観光で来られたんですよね?」
一番前を歩きつつ、リッカが少しだけ後ろを振り返って尋ねて来たが、やはり外部の人間がこの島に訪れるのが余程珍しいのだろう。
「うん、まぁ、大体そんな感じかな。……船に乗るのも島に来るのも初めてだから、ずっと楽しみにしていたんだ。オスクリダ島には綺麗な海と砂浜があるから、ちょっと泳ぎたくなってくるな!」
リアンが笑顔でそう答えていると、その答えを咎めるように彼の隣を歩いているイトから肘鉄を横腹へと入れられてしまう。恐らく、任務中だということを忘れるなと、イトが注意しているのだろう。
「そうですね。この島には……あまり名物らしい名物はないですが、海と砂浜がとても綺麗な場所なので、一度行ってみることをおすすめします」
「……リッカさんは、俺達よりも年下に見えるけど、一体いくつなんだ?」
すると、再びイトの肘鉄がリアンの横腹へと深く突き刺さる。鈍い声を上げて呻くリアンに対して、イトが冷ややかな視線を向けて言い放った。
「……リアン、あなたのそういう無神経で遠慮がないところを直しなさいといつも言っているでしょう。女性に対して歳を聞くのは失礼です」
「あっ、そうだった……! ごめん、リッカさん!」
イトに注意されたことでリアンの表情はさっと青ざめる。どうやら日頃から、イトによく言動を注意されているらしい。
しかし、リッカの方はというと、リアン達のやり取りを見て、くすくすと楽しそうに笑っているだけだ。
「いえ、特に気にしていないので大丈夫ですよ。あと、私の方が年下なのでリッカと呼んで下さって構いません。……今、14歳です」
「14歳っ? それにしては随分と落ち着いているなぁ……。俺がそのくらいの歳の頃はやんちゃばかりしていたから……」
リアンが感心そうに答えると話しやすいのか、リッカはくすりと小さく笑って頷き返してくる。
「私の弟も今、やんちゃ盛りでして……。皆さんがお泊りになると知ったら、嬉しくてはしゃいでしまうかもしれません」
「そういえば、さっきも話していたけれど、弟さんがいるのね」
アイリスの問いにリッカは再び頷きつつ、船着き場から舗装されていない地面へと足を着けて、更に道を進んでいく。
「私より2つ年下で、名前はライカって言います。お客さんが来るのは久しぶりなので、皆さんに島の外のお話を訊ねたり、遊んでもらおうと誘って来るかもしれません……」
道の曲がり角を曲がる際に見えたリッカの横顔を見て、アイリスは何となく安堵していた。リッカの目元が出会ってから一番、柔らかいものになっていたからだ。
「それなら、やることが終わったら、海に誘ってみるか!」
リアンが名案だと言わんばかりにそう言うと、隣のイトが今度は軽く咳払いをしていた。
「……アイリスさん達を手伝うと言ったのはどこの誰です?」
「うっ……。で、でも……子どもが遊びたがっているなら、誘うべきかなーっと……」
「自分の発言には責任を持ってください」
イトが厳しめに注意しているので、アイリスは慌てて割って入ることにした。
「あの、私達がやるべきことの方は気にしなくていいわ。元々は……私達が受けている任務だし」
任務、という言葉だけリッカに聞き取られないように声を落とす。
「だから、リアン達は遠慮なく、自由に島で過ごして構わないのよ」
アイリスが穏やかにそう告げると、イトは小さな溜息を吐きつつ、再びリアンの方へと視線を戻した。
「リアン、アイリスさんの寛大なお心に、魂の底から感謝することですね」
どうやら、イトから許可をもらうことが出来たらしいリアンはぱっと満面の笑みを浮かべる。本当に分かりやすい性格をしている人だ。
こちらの様子を聞いているのか、リッカは肩を小さく震わせるように笑っている。どこにでもいるような女の子にしか見えないが、彼女の話の中からは「弟」しか、家族の話は出ていない。
……そう言えば、さっきも話の中で、家には自分と弟しかいないって言っていたけれど、もしかして……。
親がいないのでは、と口にすることは出来なかった。人にはそれぞれ事情というものがあるし、根掘り葉掘り聞かれるのは自分も好きではない。
真っすぐと立っている小さな背中には何が背負われているのだろうか。だが、まだリッカと出会ったばかりの他人であるアイリスはただ、彼女の背中を何とも言えない表情で眺めていた。




