海と船
――オリゾン地方、ナルシス町の港。
港の堤防の上に立って、アイリスは初めて感じる潮風を全身で受け取ろうと深く呼吸を繰り返していた。
初めて見る海はただ広く、大きく、終わりが見えないことに驚きを隠せずにいたが、海というものをアイリスは深く気に入ってしまっていた。
……本当に大きな水溜まり。本で読んで、描いていたよりも広く、深い青の世界……。
太陽の光が反射して、水面を煌めかせている光景は何とも美しいものだ。
そして、水の上に大きな船が浮かんでいる光景も、理論的には頭で分かっているのだがやはり不思議に思ってしまい、つい笑みが零れてしまう。
だが、今は任務としてこの地に赴いているのだからとアイリスは気を引き締め直すために、一度両手で頬を軽く叩くことにした。
「ふっ……」
両手で頬を叩いたことでぱんっと渇いた音が響いた後に、軽く笑った声が聞こえて、アイリスは後ろを振り返る。そこには小さく苦笑しているクロイドが堤防に立っているアイリスを見上げていた。
「どうしたんだ、アイリス」
「あ……」
自ら頬を張る姿を見られたことを恥ずかしく感じたアイリスは慌てて、手を下ろしてから、堤防の上からクロイドがいる場所へと飛び降りた。
降りた瞬間に、背中に背負っている荷物の重さが少しだけ遅れて伝わって来る。
いつもの遠出の際よりも大荷物である理由としてはやはりオスクリダ島には電気とガスが通っていないと事前に聞いていたため、普段の荷物よりも少しだけ必要なものが多くなってしまったのだ。
そして、念のためにと装備している長剣は、外から怪しまれないようにと布で包んで背負っており、短剣はスカートの下に忍ばせることにしていた。
「ちょ、ちょっと気合を入れ直していただけよ!」
表情が緩んでいることを覚られたくがない故に、アイリスはわざと真面目そうな表情を作ってから答えた。
「そうか。……俺は君が初めての海を満喫しているのかと思っていたが」
「うっ……」
相棒であるクロイドには、すでに自分が少々浮かれていたことはお見通しらしい。気まずげに顔を逸らして、アイリスはわざと話題を変えることにした。
「そ、それで……。オスクリダ島に行く船は見つかったの?」
アイリス達は首都であるロディアートから、このナルシス町が終着駅である場所まで汽車に乗ってやって来ていた。
事前にブレアとミレットから町の情報や乗らなければならない船の情報を貰っていたため、迷うことなく辿り着いたのは良いが、さすがに停泊している船の数が多いため、色々と聞き込みをしてオスクリダ島に向かう船を探していたのである。
ミレット情報によれば、このナルシス町の船着き場から週に一度の定期船がオスクリダ島を行き来しているらしく、アイリス達は昼過ぎに港を出る予定の船を探していた。
「ああ。ほら、あの船着き場に見える青と白の線が入った船がオスクリダ島行きらしい」
アイリスは視線をクロイドが指さした方へと向ける。そこには小型船が停泊しており、海の上に浮かんでいるせいか、ゆらりゆらりと揺れていた。
「あの船を逃したら、次の定期船は一週間後だな」
「……そんなに定期船が少なくて、島の人達は大丈夫なのかしら」
「ほとんど自給自足で暮らしているらしいぞ。まぁ、島の人達も漁に使う船は持っているから、その船で向こうからこっちに魚を市に出荷しに来るんだろうな」
「なるほど……」
アイリスは頷きつつ、乗るべき船に向けてクロイドの隣を歩き始める。
海の上空を泳ぐように飛んでいるあの白い鳥たちは何と言う名前なのだろうか。どこからか聞こえる男達の声は明るく、何かを笑い合っているようだ。
……港というものは、色んな音や匂い、色に溢れて賑やかね。
首都であるロディアートとはまた違った賑わいを見せる港町に、アイリスは内心胸が躍っていた。だが、それを表に出してしまえば、またクロイドに笑われるだろうと思い、必死に平静を装うことにする。
アイリス達は青と白の線が船体に入っている小型船を停泊させている船着き場で煙草を吸っている中年の男性へと近付き、挨拶をした。
「――こんにちは。すみません、オスクリダ島行きの船って、こちらで宜しいのでしょうか?」
アイリスが中年の男性に訊ねると、彼は口に添えていた煙草を右指に挟んでから笑顔で答える。
「ああ、そうだよ。……あ、もしかして、事前に連絡があった人達かね?」
「はい。ローレンスです」
「そうそう、確か電話で聞いたのはそんな名前だった。やあ、よく来てくれた。何せオスクリダ島に週一で船は出ていても、あの島に観光に行く人間が珍しくって」
小型船の船長と思われる男性は、アイリス達に手招きしつつ、船と船着き場を繋ぐ渡し板を通るようにと促してくる。
「お邪魔します」
「たまに板が揺れたりするから、気を付けて通ってくれよ。でなければ、海の中に一直線だ。がはははっ」
船長は愉快そうに笑っているが、こちらとしては海に入ったことさえないので、海に落ちてしまったら笑いごとではない。アイリス達は慎重に渡し板の上を一人ずつ通り、そして小型船へと乗り込んだ。
波によって船全体が揺れているらしく、慣れていないアイリスは少しだけ足元がふらついてしまう。
その上、数日分の着替えや生活する上で必要なものを詰め込んだ鞄を背負っているため、重さによって身体の重心が動いてしまった。
「わっ……」
つい、後ろに尻餅をつきそうになったが、すかさずクロイドがアイリスの左腕を掴んでくれたおかげで、何とか転ばずに済んだ。
「……大丈夫か?」
クロイドはすでに船の上での歩き方を会得しているらしく、いつもと同じように堂々と立っている。
「あ、ありがとう、クロイド……」
お礼を言いつつもアイリスは、何とか体勢を持ち直して、両足で立った。それでもやはり、船の上は不安定で、波によって揺れるたびにアイリスの身体も揺れてしまう。
「おう、姉ちゃん。そこに長椅子があるだろう? 島に着くまで座っているといいさ」
「ありがとうございます……」
船長の男性が指さした場所に視線を向けると船体を背にするように、船体の左右に二脚の長椅子が向かいあって置かれていた。
「……島に着くまで時間がかかると思うし、あとは船長さんに任せてゆっくりしておくか」
「そうね……」
クロイドに同意しつつ、アイリスは長椅子がある場所まで何とか歩を進め、そして腰を下ろした。
身体に揺れを感じるが、それでも座っているため体勢が大きく崩れることはない。クロイドもアイリスの隣に腰を下ろして、小さく一息ついていた。
「……そういえば、あなたも船に乗るのは初めてのはずよね? でも何だか慣れているように見えるわ」
「そうか? ……平衡感覚は君も優れている方だろう?」
「それは陸地だからよ。……船の揺れ方って、何だか不思議な感覚なのね」
馬車や自動車になら乗ったことがあるが、それでも船はお互いに初めてのはずだ。クロイドの表情が余裕ありげに見えて、アイリスは小さく苦笑しながら答えた。




