消える叫び
暗く深い森の木々の隙間を縫うように、少女は息をすることも忘れて走っていた。足がもつれそうになっても、それでも止まることなく走り続ける。
少し後ろを振り返っては、誰もいないことを確認して、前を向くことを繰り返した。
――逃げなきゃ、早く。家に帰らなきゃ。
夜の散歩はいつもの日課だ。弟が眠った後に家を抜け出しては、海沿いを歩いたり、森の近くを歩いたりして、日々積もる寂しい想いを拭うための気分転換として行っていた。
だが、今日は違った。知ってはいけないものを知ってしまった後悔が胸の奥で湧き上がっては、焦燥を掻き立てて行く。
つい先程の事だ。自分はとんでもないものを見てしまった。
この島だけで祀られている神様の正体を。
きっと、正体を知ってしまったと、神だと思っていたものに知られたら、自分は連れ去られてしまうだろう。
この森の道は熟知している。自分の足で進んでいい場所と踏み入れてはいけない場所。そして今日、自分は踏み入れてはいけない場所の秘密を知ってしまった。
興味があっても、やってはいけないことくらいは分かっていた。だが、偶然にも見てしまったのだから、後戻りは出来なくなった。
……どうしよう。この事を皆に言った方がいいのかな。
後ろには誰も迫ってきていないと分かっているのに、速度を落とす事なく少女は走り続ける。まだ、自分があの場にいたことを相手には気付かれていないはずだ。
恐ろしいものが、森の奥には待っていた。
神様なんかじゃない。あれは――。
……でも、言ったことを誰にも信じてもらえなかったら、私は……。
迷える森に住まう神様と島に伝わる神隠しの秘密。それを皆に伝えて、果たして信じてもらえるだろうか。
島の皆は神様の存在を信じている。
小さい頃からずっと島の皆から聞かされてきた話だ。
迷える森に住まう神様に森の奥へと連れ去られることは、神様に選ばれた者として幸せに満ちた素晴らしい世界に連れて行って貰えるのだと信じている。
だが、その伝えは虚栄だった。嘘だ、まやかしだ。
森の深い場所に存在していたのは神様でも、何でもない。ただの化け物だった。あの化け物の鳴き声を聞いた瞬間、これは伝承の神様でも何でもないと瞬時に覚った。
どうして、今まで気付かなかったのだろう。どうして、誰も疑おうとはしなかったのだろう。
ここ最近、「神隠し」に遭う人が増えたことに対して、誰も不思議に思わずに羨ましがっていたことが途端に恐ろしく感じられ、少女は身震いした。
ただ、一つを熱心に信じ続けることがこれ程、愚かしいことだとは知らなかった。
今まで神様に連れ去られて島からいなくなった人達を想っては、今頃、素敵な世界で幸せに過ごしているんだろうね、なんて話して笑っていたことを妬ましく思えてしまう。
何もかもが全て――偽りだったのだ。
込み上げてきそうになる涙を手の甲で拭って、少女は唯一の居場所である自分の家に向けて走り続ける。
逃げたい。この場所から、どこか遠くへ。でも、一体どこへ。
どうやって逃げるというのか。何も持たない自分達はこの場所で生きることしか教わっていない。
神様は自分達をいつかきっと捕まえに来る。それが分かっているのに、逃げることが出来ないのは何とも歯がゆく、虚しい。
……怖い。けれど、どうすれば……。
自分だけ逃げても意味はない。島の人達に真実を伝えて、皆で逃げてしまいたい。だが、島の人達の中に裏切り者がいると分かっているのに、安易に真実を伝え回ることは出来なかった。
もし、そうしてしまえば、口封じのために自分が真っ先に「神様」に連れ去られてしまうからだ。
悔しさと後悔とそして、焦燥感が胸の奥で沸き起こり、その感情だけが今の自分を強く保ってくれていた。
恐らく、普通の島の人だったならば、真実を受け入れることは出来なかっただろう。それどころか、信仰心の深いお年寄り達なら、神様を侮蔑するようなことを言うなと怒るに決まっている。
自分が心から信じられる大人が、この島にはいない。頼れる家族だって、自分にはいない。
唯一、血を分けた弟だけしか、自分は持っていない。だが、この話を弟にするわけにはいかなかった。まだ純粋で、穢れを知らない弟が知れば、混乱してしまうに決まっている。
……とりあえず、神様の正体を知ったことをあの人に知られないようにしなきゃ。
唾を飲み込んで、一気に速度を上げて行けば、あっという間に森の入口へと辿り着く。ふわりと海から吹いて来る潮風が鼻先を掠めていき、少女は少しだけ安堵の溜息を吐いた。
それでも、安心するにはまだ早い。
少女は止まることなく、通り慣れた道を駆け抜けて行く。
……この島には、人を処罰出来る法律が存在していない。誰かを取り締まるような組織がない。それならば、誰を頼れば……。
島にも小さいが学校はあるため、島外のことを知るための勉強はしている。得た知識の中で、自分が見てしまった状況に対して、誰がどう適切に対処してくれるのだろうかと必死に頭を回転させていく。
だが、あのおぞましい光景を目にしてしまったあとでは、どんな人間でさえ太刀打ち出来ないと分かっていた。
……誰か、私を、私達を助けて。どうか、どうか――私達の神様を……。
少女の叫びは誰にも届くことはなく、心の奥底へと仕舞い込むように消えていく。
少しずつ自分達へと近付いて来る影に対抗する術が分からないまま、ただ流れる涙を隠すしかなかった。




