寝顔
「……ブレアさん、イリシオス総帥の護衛もしなきゃいけないから、大変みたい」
ベッドに身体を投げ出すようにして、アイリスにしがみついていたミレットが起き上がり、目元を拭いながら小さく呟く。
もう、気持ちは落ち着いたのか、ミレットの表情はいつもの仕事人の顔へと戻っていた。
「イリシオス、総帥……」
「ほら、総帥は不老不死でしょう? もしかすると、教団を襲った悪魔が総帥の持っている魔法の情報や不老不死を狙っている可能性だってあるだろうし……」
ミレットの言う通り、不老不死の魔法を混沌を望む者に奪われたならば、悪用される気がしてならない。それを防ぐために、ブレアはイリシオスの警護に向かったのだろう。
「事態は収拾しつつあるけれど、一番の問題はやっぱりどこに潜んでいるか分からない悪魔よね。……よし、私ももう一踏ん張りで祓魔課の手伝いをしてくるわ」
立ち上がったミレットは鼻を鳴らしつつ、気合を入れているのか、両拳を握り締め直している。
「あら、私を見張らなくていいの?」
冗談交じりにアイリスがそう言うと、ミレットは胸を張りつつ答えた。
「アイリスにはクロイドが付いているもの。私は自分に出来ることをやって来るわ。……そういうわけでクロイド。私の分も含めて、しっかりとアイリスを見張っていて頂戴ね」
「任せろ」
ミレットはそう言い残すと、颯爽とその場から立ち去っていった。やはり、仕事をしている方が生き生きとしており、ミレットらしく思えた。
再び、その場にアイリスとクロイドだけが残される。カーテンの向こう側からは様々な声が聞こえているにも関わらず、二人だけの個室内は自然な静寂によって包まれていた。
「……」
「……」
お互いに無言の状態が続いたため、そろそろ何か言葉をかけた方がいいだろうかと考え始める。
アイリスがかける言葉を思案していると、布団の上に投げ出すように置いていた手に、クロイドが彼の左手をそっと重ねて来る。自分よりも少しだけ大きく、しっかりした手はアイリスの細い手を捕らえた。
そして、何かを確かめるようにクロイドはアイリスの手の甲を指先でなぞることを繰り返していく。
何度も何度も、指先から手の甲までなぞっては、優しく触って来たのだ。
「……くすぐったいわ」
思わず、恥ずかしそうにアイリスがそう呟くと、クロイドはなぞっていた指先をそのままアイリスの指へと重ねて来る。すっかり包み込まれた手には、二人分の温度が少しずつ生まれて行く。
「……君が、無事でいることが嬉しくて……。ただ、確かめたかったんだ」
囁くように告げられる言葉は穏やかで、その声をどのような表情で呟いているのか見たくなったアイリスはクロイドの方へと振り返った。
お互いの顔と顔の距離は約10センチで、相手の息がかかる程の距離だった。黒い瞳が真っすぐと自分を見つめており、逃がしはしないと告げているようだった。
「……何を?」
アイリスは動揺しそうになった心を抑えながら、クロイドに訊ねる。アイリスの背中を支えるように添えられていた彼の右手は熱がこもっており、温かった。
それだけではない。重ねられている指からも熱が伝わって来る。
「……」
訊ねてもクロイドは答えない。だが、重なっている視線の先の黒い瞳は夜凪のように静かなままだ。
いや、違う。
これは夜凪の瞳などではない。
そう気付いた時、背中を支えてくれていたはずのクロイドの右手が急にだらりとその場に落ちて、彼の身体がふわりと前のめりに動いたのである。
瞬間、アイリスは咄嗟に両手をクロイドの身体を受け止めるべく伸ばしていた。
しっかりと受け止めたクロイドの身体はアイリスの膝上へと覆いかぶさるように倒れており、肩を小さく揺らしては呼吸している。
「……クロイド?」
名前を呼んでも、自分の太ももを枕のようにして目を瞑っているクロイドから返事は聞こえない。彼からは穏やかな寝息が聞こえるため、やはり完全に眠ってしまっているようだ。
それもそうだろう。昨日は一日中、魔物を討伐するために教団内を駆けずり回り、そして深夜には自分が魔物に寄生されたせいで、彼には心配をかけっぱなしだった。
自分が気絶している間も彼は傍で見守っていたのだから、ゆっくりと仮眠を取る暇なんて無かったはずだ。
魔物に寄生された自分が無事だと安心できる状態になるまで、ずっと気を張っていたのだろう。
寝息を立てているクロイドの寝顔をそっと覗き見てみる。彼は疲れ果てた子どものように無垢な表情で瞼を閉じていた。
彼の寝顔を意識して、はっきりと見るのは初めてかもしれない。中々、可愛らしい寝顔をしているということは、自分の心の中に留めておいた方がいいだろう。
「……」
アイリスはクロイドの身体を抱きとめた手で、彼の黒髪をそっと指先に絡ませるように撫でて行く。柔らかい髪は冷たく、そして、アイリスの指先はそのままクロイドの頬へと触れた。
「……ごめんね、クロイド」
いつも感情によって暴走しがちな自分を引き留めて、心を支えてくれるのはクロイドだ。そして、一歩を踏み外そうとしている自分を無理矢理に引き戻してくれるのも彼だ。
自分はどれ程、クロイドに迷惑をかければ済むのだろう。それでも――自分は、彼の温かな優しさに救われてしまうのだ。
「ありがとう……。でも、ごめんなさい……」
頬を撫でる指先から感じる温度を自分はもしかすると二度と感じられずにいた可能性だってあった。
だが、クロイドが引き戻してくれたおかげで、自分は本当の意味で冷静さを取り戻し、そして魔物に打ち勝つことが出来た。
――私、クロイドがいないと駄目なんだわ。
何度だって、そう思うだろう。依存以上に抱える想いを何と呼べばいいのか分からない。
恋慕や思慕だけではない。彼に抱く想いは自覚するたびに重いものだと分かっている。
これ以上、クロイドを苦しめたくはないのに、それでも最後には彼の手を取ってしまうのだ。
自嘲的な笑みを静かに浮かべつつ、アイリスは掌をクロイドの頬へと添える。
「……私はきっと、また……あなたを悲しませてしまうわ。でもね……」
静かに呟いた言葉は、自分以外に誰も聞いていないだろう。二人きりの空間にアイリスの言葉は元から無かったように、すっと溶けるように消えていく。
「それでも……私には……。やっぱり、あなたが必要なの、クロイド」
閉じた瞳に向けて、アイリスは小さく微笑む。大切だと思っているクロイドを苦しめることになると分かっているのに、必要としてしまうことを許して欲しいと思うのは傲慢な願いなのだろう。
アイリスは息を吸い込み、そして瞼を閉じた。触れ合う熱の温かさを確かめ、そして意識するのだ、自分はちゃんと生きているのだと。
この温かく優しい実感を与えてくれるのはクロイドだけなのだと、改めてアイリスは感じていた。




