相反魔法
それまで子どものように泣きじゃくっていたクロイドが落ち着いてから暫く経った後に、ベッドに寝かされていたアイリスの元へと人が訪ねて来た。
カーテンの内側へと入って来たのは眉を大きく中央に寄せたままのブレアと、瞳を泣き腫らして赤くしているミレット、そして安堵の表情を浮かべているクラリスだった。
三人が一つも被ることなく対照的な表情をしている理由としては、魔物に寄生されたアイリスの現状についての受け止め方がそれぞれ違うからだろうと密かに思った。
「とりあえず、アイリスの身体からは魔物の魔力は一切感じられないって、検査結果が出たわ。意識もはっきりしているし、もう大丈夫だと思うけれど、念のために暫くは安静にしていてね」
クラリスはアイリスの身体の検査結果について記されている書類を確かめるように眺めつつ、最後ににこりと笑った。彼女が笑顔を見せる時は、大丈夫という言葉が本当に安堵出来る時だと知っている。
アイリスが少し気の抜けたようにふっと息を漏らすと、それまで真っすぐ立っていたミレットの足が前のめりに崩れ、アイリスが座らされているベッドの上へと身を投げだすように急に倒れ込んできたのである。
「良かったぁっ……。うぅっ……」
クラリスの言葉に安堵したのか、再び泣き始めるミレットの頭をアイリスは小さく苦笑しつつ、そっと撫でる。
魔物に寄生された自分をずっと心配してくれていたらしく、ミレットは疲れ切っているのか、目元に隈が出来ているようだ。
もしかすると、アイリスに魔物が寄生してしまうことになったのは自分のせいだと感じて、彼女なりに何か最善を尽くせないか徹夜してまで、調べてくれていたのかもしれない。
もちろん、魔物に寄生されたのは自分の不注意によるもので、ミレットのせいとは全く思っていない。あえてそう伝える必要はないだろうと、アイリスはミレットの頭を優しく撫で続けた。
ミレットにしては珍しい、気の抜け具合だ。こうしていると、年下の子をあやしているように思えてしまう。
「だが、アイリスのおかげで、寄生する魔物を対処するための相反魔法も無事に完成した。魔法課の奴がさっそく、試しに一人の団員に張り付いている魔物に相反魔法をかけてみたが、それまでの執着が嘘のように魔物がぽろりと剥がれたらしいぞ」
壁に背をもたれつつ、ブレアがどこか気が抜けたように笑っている。ブレアもミレット同様に寝ていないのか、顔は少しだけ疲れているように見えた。
よく見ると、彼女の腰には本気の装備である長剣が下げられている。ブレアも一晩中、教団内で起きた混乱に対処していたのかもしれない。
相反魔法は発動している魔法を打ち消すために、逆の仕組みを与えられた魔法のことだ。
それが完成したということは、もし今後、魔物に寄生された者が出たとしても、正しく対処できる事を意味している。
自分が気絶している間に、色々とあったのだろう。時間はすでに夜が明けているのか窓の外から射し込んでくる太陽の光が建物の隙間を通っては、アイリス達がいる個室内を照らしてくれていた。
アイリスの個室のカーテンの向こう側からは、団員達によるものと思われる明るい声が次々と飛び交っている。
ブレアの言葉通りならば、完成した相反魔法によって、魔物の寄生から解放された団員達が目を覚ましているのだろう。
自分の仲間が元の状態に戻れば、嬉しさと喜びで気持ちが沸き上がるに違いない。
これで、もう魔物による被害が拡大することはないだろうと安堵した瞬間、アイリスは少しだけ気が抜けたのか、身体がふわりと後ろへ傾いた。
だが、ベッドの隣に椅子を持ってきて並ぶように座っているクロイドが右手で背中を支えてくれているおかげで、何とかベッドの上に背中を着けずに済んだ。
アイリスは視線をクロイドに向けて、無言でお礼を伝えつつ、再び視線をブレアへと移す。
「……ブレアさん、魔物討伐の方はどうなりましたか」
少しだけ掠れそうになる声でアイリスは一番心配していたことを訊ねる。確か、昨夜にはまだ全ての魔物の討伐は完了していなかったはずだ。
「魔物討伐課が中心となって、夜中に頑張ってくれたおかげで、教団内に残っていたほとんどの魔物は片付けられたようだ。教団を覆う結界も無事に修復されてある。ただ……」
そこでブレアは気まずげに言葉を濁しつつ、鼻にかかっている眼鏡の縁をそっと上へと上げる。
「混沌を望む者は未だに姿を見せないまま、教団内に潜んでいるようだ」
「……」
ブレアの言葉に、その場にいる誰もが口を閉ざす。突然、教団を襲った悪魔「混沌を望む者」の脅威は終わっていないため、気が抜けない状態が続いているらしい。
「ハオスの方に関しては、祓魔課がずっと総出で動いている。ハオスが魔法を使った痕跡が教団内に残っているらしく、それを細かく調べては足跡を辿っているとのことだ」
「そう、ですか……」
やはり、混沌を望む者に関しては専門の課に任せておいた方がいいだろう。
アイリスは布団の上に出していた片手で拳を作りつつ、表情は平静を努めた。怒りを潜めたアイリスの気持ちを分かっているのか、ブレアは短く息を吐いて、一歩近づいて来る。
「お前はもう、十分過ぎる程に頑張った。……あとは他の者に任せて、もう少し休んでおきなさい」
ブレアはそう言いつつ、アイリスの頭をそっと右手で撫でて行く。優しい手の感触に宿るのは温かさだ。それを感じながら、アイリスはブレアに頷き返した。
「すまないが、私は用があるのでここで抜けさせてもらう。クロイド、ミレット。アイリスがベッドから抜け出さないようにしっかりと見張っておいてくれ」
「分かりました」
「もちろんですっ!」
自分の体調が戻り次第、すぐに身体を動かすことを見透かしているらしく、ブレアはクロイド達に見張りを命じ、命じられた二人はその命令を絶対に突き通すと言わんばかりに強く頷いていた。
「クラリス、まだ暫くは医務室内が混乱していると思うが、もう一踏ん張りだ。アイリスを含めた他の団員達を宜しく頼むよ」
「はい、お任せを。……それじゃあ、私は医務室長にアイリスが目を覚ましたって伝えて来るから」
クラリスは軽く一礼してから、少々早足気味にアイリスの個室から出て行った。まだ、医務室内は多くの負傷者で溢れているはずだ。中々、手が休まる暇はないのだろう。
「……また、見舞いに来るよ」
それだけを告げて、ブレアはカーテンの向こう側に行くために数歩、足を進める。しかし、カーテンを捲る手を止めて、一瞬だけアイリスの方を振り返ったのだ。
「……」
彼女の眼鏡の下に見える黒茶色の瞳は、どのような感情を含んでいたのか読み取れなかった。
それでも、その視線を剥がすようにブレアはアイリス達に背を向けて、今度こそカーテンの向こう側へと去っていった。




