実感
深い闇の中、アイリスの身体はそこにあった。暗い空間にふわりと浮かんだままで、自分はそこにいると分かっているのに、周りには何もなかった。
これは恐らく夢の中だろう。自分は眠っていると理解している上に意識もはっきりしているのだから、何とも奇妙な気分だ。
……どうして、私、こんな場所にいるのかしら。
このまま悪い夢になるならば、早く覚めればいいと思うが、周りは暗闇が漂っているだけで何か光景が見えるわけではなかった。
それでも、何もない空間を見続ければ、寂しさが生まれて行くだろう。やはり、早いところ目を覚ました方が良いかもしれない。
そんなことを思いつつ、身体をふわりと漂わせていた時だ。
暗い場所にいるはずなのに、少しずつ人によって紡がれる言葉らしいものが聞こえ始めて来る。その声はアイリスがいる空間全体に響いては、跳ね返るように反響して消えていく。
何を言っているのかまでははっきりと聞き取ることは出来ない。だからだろうか、今この空間に響いている声をしっかりと受け取りたいと思ってしまったのだ。
「……」
アイリスは出来るだけ意識を集中させて、その声がどのような言葉を紡いでいるのか聞き取ろうと耳を澄ませてみた。
『――ス……ん』
聞こえる言葉は舌足らずで、そして幼くも聞こえる。まるで子どもが喋っているようだ。一生懸命に、何かを願うように、その舌足らずな言葉には強い意思が含められているように思えた。
だが、同時にその声は悲しみに満ちているように感じられ、言葉を耳に入れたアイリスの胸の奥が一瞬だけ、ずきりと痛む。
……どうしてかしら。私、この声を――。
少しずつ、聞こえる声は大きくなり、そしてその言葉の意味をアイリスははっきりと認識する。
『――アイリス、ごめん。……ごめんね』
暗闇に響く、悲しみに溢れた声を聞いた瞬間、アイリスは夢の中で漂っていた意識を手放していた。
・・・・・・・・・・・
閉じていた瞳の瞼の向こう側に感じた光を認識し、アイリスは光に導かれるようにゆっくりと目を開ける。
「……」
最初に広がったのは白で統一された光景。何度か見た同じ光景に、思わず短い息を吐いた。
どうやら医務室のベッドの上に自分は寝ているのだと改めて認識し直しつつ、アイリスは小さく身じろぎした。
「……アイリス?」
すぐ傍で名前を呼ぶか細い声が聞こえ、アイリスは視線を白い天井から左斜め先へと動かす。そこには目を見開いて、身体が固まっている状態のクロイドの姿があった。
彼は椅子に座っていたのか、小さな音を立てつつ、慌てたようにすぐに立ち上がると、アイリスの顔を覗き込むためにゆっくりと近付いて来る。
「……俺のこと、分かるか?」
確認するように静かに訊ねて来る言葉は少しだけ震えており、アイリスは口元を緩めてから小さく頷く。
「……私の、相棒のクロイド……でしょう?」
一言、一言を確認するように告げると、顔を近づけてきていたクロイドの表情がふわりと破顔した。
自分の意識がはっきりしていることに安堵したのか、クロイドはただ嬉しそうに目元を緩ませていた。
「ねえ、黒い魔物は……」
自ら刃を立てて剥ぎ取った黒い魔物はどうなったのだろうかとクロイドに訊ねてみる。クロイドはすぐに真面目な表情へと戻してから、視線を少しだけ個室のカーテンの向こう側へと向けた。
「魔物は魔法課の人が回収していった。今、魔物を検体として調べているらしい。魔物から抽出される魔法に、人に寄生する要因が明らかになれば、それに対する相反魔法を作って、寄生されている人達を元に戻すことが出来るかもしれないと言っていた」
クロイドの視線は再び、アイリスの方へと向けられる。
「……アイリスが魔物を生け捕りにしたことを感謝していたぞ。君の体調が戻り次第、また後で魔法課の人がお礼を言いに来るらしい」
「……そう。相反魔法が……」
アイリスは腹部に左手をそっと当てる。今は白い患者衣を着せられているが、その下には包帯で何重巻きにされているらしく、治療の手が施されていた。
それでも、出血はしていないらしく、服が赤く染まってはいなかったことに、アイリスはほっとしていた。
「君に張り付いていた魔物の針も脚も全て、抜き取ってある。念のために、異常がないか身体を調べられていたが、他に問題の点は見つからなかったとクラリスさんが言っていた」
「……」
腹部をゆっくり撫でつつ、アイリスは瞼をゆっくりと閉じる。そこにはもう、何もない。いつも通りの自分の身体があるだけだ。
痛みも、苦しみも、何もないのだ。
……終わった、のね。
目を開くと、穏やかだったはずのクロイドの表情がくしゃりと崩れていた。
彼の黒い瞳から一筋の粒が零れ落ちて行く。不謹慎だと分かっているが、彼から零れ落ちた涙を美しいと思ってしまった。
きっと、その涙は彼の優しさが具現化したものなのだろう。だからこそ、美しく思えたのだ。
「……良かった」
それだけ呟くと、クロイドはアイリスの左肩に彼の額を添えつつ、ベッドの上に寝かされたままの身体をそっと包み込むように抱きしめて来る。
少しだけ震える手には力がこもっており、言葉が無くても彼がどれほど自分を心配していたのかが窺える。何も言わなくて、全て分かる。
彼は自分の目が覚めるまで、ずっと傍にいてくれたのだ。
ただ、生きていることを確認したくて、心配で、不安で、ずっとずっと見守ってくれていた。
見ていなくても、クロイドが自分の無事を祈ってくれていたのだと、分かっていた。
……私は、魔物に勝った。……勝てたのね。
アイリスはそれをやっと自覚して、そして抱きしめてくるクロイドの背中にゆっくりと手を回す。
あまり力の入らない両手を添えた震えるクロイドの身体には、どれほどの我慢が詰められていたのだろうか。
クロイドだって、本当は生死を分けるかもしれない自分の行動を止めたかったはずだ。
それでも、アイリスの意思を尊重して、耐えてくれた彼の覚悟こそ、クロイドが自分に示した勇気なのだろう。
「ありがとう、クロイド……。心配かけちゃって、ごめんね……?」
抱き締められる強さによって、アイリスが喘ぐように言葉を呟くとクロイドは何かを飲み込んで、そして頷き返した。
子どものように泣き続けるクロイドの背中をとんとんと優しく撫でるように叩きつつ、アイリスは彼が落ち着くまで、回した腕を離すことはなかった。
……温かい。優しくて、強くて……。でも、嬉しくて涙が出そうなくらいに温かい。
打ち勝ったからこそ、得られる生の実感をアイリスはもう一度、クロイドから伝わる温度によって確かめていた。




