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覚悟


「……ねえ、私の短剣はどこ?」


「……」


 クロイドは答えない。短剣を渡せば、自分はどのような行動を取るか察しているからだろう。だからこそ、彼は優しい人なのだ。

 クロイドの表情を読み取ったアイリスは、彼が自分の短剣を持っているのではとすぐに察した。


「返して」


「……駄目だ」


 苦渋の決断をしたような表情でクロイドは呟く。膝の上に置かれている彼の両拳は強く握りしめられ、そして小刻みに震えていた。


「君は……。君に短剣を渡せば……何をするのか、分かっている」


「それなら話は早いわ。私の短剣を返して」


 クロイドの嘆くような表情に構わず、アイリスはただ真っすぐと言葉を告げる。ここで押し問答をしても、時間が過ぎるだけで意味はないのだ。


「駄目だ。渡せば、君は自分の手で……」


「そうよ」


 クロイドの言葉をわざと遮るようにアイリスははっきりと言い放つ。


「今はまだ、意識を乗っ取られていないから良いけれど、いつ私があなたを襲うか分からないもの。だから、今――この手で密着している魔物ごと、腹部を切り落とすわ」


 惜しむことは何もない。寄生される前に、終わらせなければならない。

 今はクロイドの言葉を一切、耳に入れたくはなかった。彼が紡ぐ言葉は優しさで出来ている。


 だが、今の自分に優しさを与えれば、二次被害が大きく出てしまうに決まっている。これは英断だ。誰にも邪魔させるわけにはいかない。

 そのためならば、自分はこの手でこの身体を傷付けることさえ、いとわない。


「魔物に寄生されて、自分を見失って、誰かを傷付けるくらいなら……。――私は自分自身に命を懸ける」


 アイリスの瞳は一筋も揺らぐことなく、クロイドを挑むように見つめていた。その視線の先に映されているクロイドの瞳は大きく揺れて波打っている。


 クロイドは自分自身を傷付けないで欲しいと思っているのだろう。だが、その優しさを拒絶しなければ、自分は彼を傷付けることになってしまう。


「クロイド、短剣を――渡しなさい」


 語気を強めた口調でアイリスは吐き捨てるように言った。クロイドの肩が小さく震え、彼は首を横に振る。


「……嫌だ」


 小さく呟かれる言葉はまるで、子どもが駄々をこねているようだ。


「絶対に、駄目だ。そんなこと……させない。きっと……きっともうすぐ何か良い解決方法が――」


「ないわ」


 クロイドが抱く希望をアイリスは打ち返すように遮断する。現状に、希望の欠片なんて一つも存在していない。そこにあるのは、己の手によって生まれる痛みを負う覚悟を持っているかどうかだ。


「何かを犠牲にしないまま、上手くいくことなんて――ないのよ」


 それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。覚悟を決めなければ、自分が犠牲にするもの以上の犠牲を払うことになるだろう。


「私は自分の手であなたを傷付けたくはない。でも、悲痛な想いを抱いたあなたの手によって倒されるくらいなら、私はこの手で自分を傷付けることを迷わず選ぶわ」


 クロイドの表情が大きく歪む。きっと、彼は自分に手をかけることは出来ない。彼は優しい人だ。そんな人に手を汚させるわけにはいかない。自分の落とし前くらいは自分で着けるつもりだ。


 これは自分の不注意が招いたことであって、クロイドには関係ない。

 ――そう、関係ないと強く意識しなければ、ならないことなのだ。


 たとえ、クロイドから降って来る優しさが、今から行う行為を止めるものならば、自分はそれを振り払わなければならなかった。


「クロイド、短剣を、渡しなさい」


 アイリスは一言をゆっくりと説得するように呟く。


 納得はまだ出来ていないのだろう。それでもクロイドは唇を強く噛み締め、そして――彼の腰の後ろに隠していた短剣をそっと取り出した。

 クロイドは鞘から短剣を抜いて、そしてアイリスの右手に躊躇うように握らせる。


「……ごめんなさい、あなたを……苦しめて」


「……」


「大丈夫よ。死ぬつもりじゃないもの。上手くいくとは限らないだけで」


 アイリスはすっと目を細めて、そして握りしめた短剣を使って、自身の腕を縛っている布製の紐を一瞬で切り裂いた。右手に自由が戻ると、今度は左腕を縛っている紐を素早く断ち切る。


「もし、一瞬でも暴れそうになったら、迷わず私を眠らせて頂戴」


 クロイドに話しかけつつも、アイリスは冷静に両足を縛っている紐を切り落とし、そして再び自由の身となった。

 身体が自由である上に、短剣を持っているこの状態で魔物に意識を乗っ取られたら大変なことになるのは分かっている。それでも、自分の手でどうしてもやり通したかった。


 アイリスはベッドから降りて、床の上へと自らの足で立つ。


 そして、患者衣の襟元を重ねるように着せられていたものを前面が開くように大きく自ら見開いて見せた。普段の自分なら、クロイドに下着姿を見られただけで、動揺するだろう。


 だが、今は羞恥心さえも沸き上がってこない。心の奥に燃えるのは自身の腹部に寄生している魔物に対する闘志だけだ。


「……」


 見開いた服の下から最初に目に入ってきたのは、肌に爪を食い込ませるように張り付いている黒い光沢を帯びた魔物だった。


 アイリスは試しに短剣の刃先を魔物の殻へと触れさせてみる。瞬間、魔物にかけられている防御魔法によって、アイリスの短剣は軽く弾き返された。


 やはり、魔物に防御魔法がかかっているのは殻の部分だけのようだ。短剣で魔物の内側を掬い取るようにすれば、剥ぎ取ることが出来るかもしれない。ただ、自分の身が無傷とは限らないだけだ。


「……」


 アイリスは足に力を入れつつ、数度深呼吸する。


 驚くほど、恐れや痛みに対する不安は沸き上がってこない。これ程まで、淡々としていられるのは、恐らく今の自分の思考は通常と同じではないのだろう。


 アイリスが自分の腹部と魔物が密接している部分のどの辺りに刃先を入れようかと見定めていると、クロイドによって短剣を持つ手を止められる。

 その表情はどうしようもないほどに、歪み、そして涙が溢れそうだった。


「……今更、止めないで」


「……」


 だが、クロイドはアイリスの右手を離そうとはしない。何かに耐えるように、歯を食いしばり、そして顔をゆっくりと上げた。


「待って欲しい。……俺も手伝う」


「……」


「君の決意を……俺も、しっかりと受け止めて、支えさせて欲しい。どうか……それだけはさせてくれないか」


 アイリスの揺るぎない意志に対し、折れたのはクロイドの方だった。言いたいことも、止めたい衝動も全てを飲み込んで、クロイドはアイリスの決意を受け止めてくれたのだ。


「……ええ」


 アイリスが頷き返すと、クロイドはゆっくりと惜しむようにアイリスの手首から手を離していく。


「……そのまま、剣の刃を皮膚に当てれば、後々化膿するかもしれない。ちょっと待っていてくれ」


 一言、言い置いてからクロイドはカーテンの向こう側へと一度姿を消した。


 誰かに話しかけているのか、クロイドの声がカーテン越しに微かに聞えた。1分も経たないうちにクロイドが再びアイリスの個室の中へと入って来る。だが、クロイドの右手には一枚の白い布が握られていた。


「消毒液を染み込ませた布だ。これで先に短剣を消毒しておいてほしい」


「……分かったわ」


 アイリスはクロイドから、消毒液が染み込んだ布を渡されると、その白い布で短剣の刃を隅々に拭っていく。その間にも、アイリスは腹部のどのあたりに刃を立てるか、細めた瞳で狙いを定めていた。


     

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