不快な痛み
深く、暗い海の底にいるような気分に、アイリスは呼吸が上手く出来ずにいた。息を吐いて吸おうとしても、自分の周りに空気はない。
何も見えないまま、手足を左右に動かして、自由を求めた。
もがくように水面を探して、そして――。
「っ……!」
目が覚めた瞬間、アイリスが最初に感じたのは腹部に感じる強烈な痛みだった。
まるで大きな注射針が問答無用で突き刺し続け、腹部の肉をえぐるような痛みにアイリスは一瞬、呼吸が出来ずにいた。
その痛みによって、無理矢理に叩き起こされた気分は何とも言い難いものだった。
「――ッ!」
暴れたくても、暴れられない。自分の手と足に自由はなく、背中に添えられた柔らかい壁に身体が張り付いたままだ。
動くことさえ出来ずに、この痛みに耐え続けなければならないのか。
痛い、苦しい、気分が悪い。どの言葉で表現すれば、今の自分の状況に合うのか分からない。
何も考えたくない。何も感じたくない。何も――。
「――アイリス!!」
瞬間、視界に入って来た姿にアイリスの思考はぴたりと止まる。黒髪に黒目、中性的な顔立ちと、自分を心配する低い声。
自分は、この人を知っている。誰なのかも、分かっている。
頭の中で目の前に現れた人物が誰なのかはっきりと認識する前に、少年は焦るように自分に近付いて来る。
「癒し手の風!」
黒髪の少年、クロイドが激痛によってもがいていたアイリスに向けてすぐに治癒魔法を放つ。
彼の魔具である手袋から治癒魔法による優しい温かさを感じたアイリスは、その温もりに縋るように目を薄く閉じた。
少しずつ、腹部を襲っていた鋭い痛みが鈍いものへと変わっていく。
それでも、腹部の痛みはしっかりと残ったままだ。これほどの強い痛みを今まで一度も味わったことがないため、耐え方など知らなかった。
「……アイリス、俺だ。……分かるか?」
黒い瞳が自分へと近付いて来る。何かを恐れているのか、クロイドは唾を飲み込み、言葉を震わせていた。
穏やかに細められた瞳の奥に隠されているのは――悲しみだった。
その黒い瞳に映っている自身の姿を見て、アイリスははっと自分の意識を自覚した。
「ク……ロイド……」
アイリスが呟いた言葉に、目の前の本人は安堵したように深い溜息を吐いた。気が抜けたのか、強張っていた肩は少しだけ下ろされる。
「良かった。意識は……まだ、あるようだな」
クロイドは微かな笑顔を見せつつ、近くにあった椅子に腰かけた。
「……何があったか、覚えているか?」
「……」
問いかけられる言葉に、アイリスは息を飲み込む。そして、ゆっくりと視線を自分の身体へと向けて行った。
何故か見慣れない白い服を着ており、襟を左右で掛け合わせて着る、患者衣のような服だった。慣れない着心地に首を傾げる。
確か、自分は休息を取るべく、シャワー室でシャワーを浴びていたはずだ。
そして――。
そこで、アイリスは自分の身に何が起きたのかを思い出す。腹部に残る強い痛みの正体に気付き、アイリスは唇を噛んだまま顔を強く顰めた。
「……寄生、されているのね」
「……」
アイリスの呟きに対して、クロイドは唇を噛むように閉ざしたまま何も答えない。だが、彼の表情を見れば、アイリスが言った言葉を肯定しているようなものだ。
意識してしまえば、腹部に残る痛みと共に、何か不快な違和感がそこにあるのを感じた。
アイリスは改めて周りを見渡す。白い天井と白いカーテン、そして白いベッド。紛れもなく、ここは医務室の一室だ。
カーテンの向こう側からは、他の団員による呻き声のようなものが聞こえる。眠っている者もいれば、無理矢理に魔法で眠らされている者もいるのだろう。
話し声がところどころから聞こえてくるのは、医務室の関係者の声かもしれない。
まさか、自分が魔物に寄生された側として医務室に来るとは思っていなかったため、思わず自嘲的な笑みを浮かべそうになったが、クロイドが気に病むだろうと思い、抑えることにした。
「……でも、はっきりと自意識があるのは、どうしてかしら……」
確か聞いた話によれば、魔物に寄生されて気絶した後に、意識を乗っ取られるのではなかっただろうか。だが、今の自分ははっきりと意識があるままだ。
「それは……分からない」
クロイドは彼のせいではないにも関わらず、悔しそうな顔をしたまま小さく俯いている。自分を助けることが出来なかったと悔やんでいるのかもしれない。
魔物に寄生されたのは自分の不注意によるものであるため、クロイドが悔やむ必要はない、と口に出しそうになったがアイリスは何も言わなかった。
たとえ、そう伝えても、彼が後悔した表情を拭うことはないだろうと分かっているからだ。
「……ねえ、ミレットは無事?」
自分が気を失う寸前に、ミレットが隣にいたはずだ。彼女が魔物の出現に気付いていなかったならば、ミレット自身も魔物に寄生されていたか、怪我をしていたかもしれない。
「無事だ。さっきまで君を見守っていたが、状況説明をしにブレアさんのところに行っている」
「……そう」
あまり、ミレットやブレアに余計な迷惑や心配をかけたくはなかったのだが、現状がこのようになってしまっては、悔いるよりも先に、心を決めなければならないことがあった。
それは寄生する魔物による混乱について、アイリスなりに考えていた推測でもある。
まさか実際に自分の身で確かめることになるとは思っていなかったが、これはこれで好都合だと思うしかないだろう。
「……魔力無しだってことが関係していて、完全に寄生するまで時間がかかっているのなら、不幸中の幸いだわ」
アイリスがふっと自嘲的な笑みを浮かべると、クロイドの瞳が少しだけ瞠った気がした。彼が悲しみに満ちた瞳で自分を見ている時、自分はどのような表情をしているのだろうか。
それでも、アイリスは構わずに自身の考えについて述べて行く。
「腹部に痛みはあるけれど、その痛みは魔物の針が身体に突き刺さることによって起きている痛みよ。そして、私の身体はこの魔物に直接触れられていても、防御魔法によって跳ね返されるような状態にはなっていないわ。……つまり、魔物の内側の面には防御魔法がかけられていない事を意味していると思うの」
痛みの中、アイリスは白い天井を見ながら冷静に分析していく。この痛みを感じていなければ、自分も他の団員達のように、いつか自意識を失ってしまうのではないかと恐れも抱いていた。
だが、どんな感情よりも勝るものが一つだけある。胸の奥に燃やす感情だけが、自分の意思を強く保っていた。
……私はこの手で、絶対に誰かを傷付けたくはない。
完全に寄生されて意識を失ってしまえば、周りにいる人達を全て敵だと見なして見境なく攻撃するのだろう。目の前にいる大事な人を自分の手で傷つけたくはなかった。
「……君は、何を考えているんだ」
クロイドが少し震える声でアイリスに訊ねて来る。さすがは自分の相棒と言ったところか。どうやら考えていることをすでに察しているらしい。
しかし、アイリスはクロイドの問いに答えることなく、天井を見ていた瞳をクロイドの方へと向ける。
お互いの視線が重なった時、クロイドの表情が悲しみと悔いが交じり合ったような表情へと歪んでいた。




