狂乱
だが、アイリスが攻撃してくると読んでいたのか、一閃を薙いだ瞬間に目の前のハオスがにやりと笑ったのが見えたのだ。
その笑みがどんな時に浮かべられるものなのかアイリスはすでに知っているため、小さく舌打ちしてしまう。
アイリスの剣はそのまま空を切り裂くだけで、何かを捉えることはない。攻撃した瞬間に、対象が突然目の前から消えたため、アイリスはそのまま地面へと着地しつつ、素早く後ろを振り返った。
「――よう、アイリス・ローレンス」
見上げれば、前回と同様に宙に浮いた状態のハオスがこちらを見下すように腕を組んでいた。
黒と金の瞳がすっと細められ、懐かしい友人を見た時のように口元は楽しげに緩められたままだ。それでもその視線に寒気が走るのは間違いないだろう。
「お前のことだから、最初に突撃してくると思っていたぜ」
喧騒の中、ハオスの声だけがはっきりと響く。
自分はこの声を頭の中で何度も思い出しては――殺す想像を密かにして来ていた。
「……そう。でも、私もあなたにいつか会いたいと思っていたのよ」
ハオスの纏う雰囲気自体が挑発のように思えた。その挑発に乗ってしまえば、彼の思い通りなのだろうとアイリスは息を整えるために、一つ深呼吸した。
再び長剣を構えつつ、頭上に浮いたままのハオスを強く睨む。このくらいの睨みが利く相手ではないと分かっているため、彼からすれば子猫が威嚇しているようにしか思われていないだろう。
「ははっ。そんな玩具みたいな剣で俺を殺す気なのか?」
ハオスはアイリスが持っている木製の長剣を指さしつつ、馬鹿にするように腹を抱えて笑っている。もちろん、彼の言動はいちいち気に障るものばかりだが、反応ばかりはしていられない。
それでも、身体の中は彼に対する怒りで満ち溢れているのに、頭の中が冷静でいられるのは何故だろうか。
「……あなたを一刺し出来る得物なら、何だっていいわ」
アイリスは長剣の柄を握り直してから、地面を強く蹴った。
やはり、青嵐の靴ではないため、高く跳ぶことは出来ないが、それでも2メートル程上に浮かんだままのハオスに対抗するには十分な跳躍だろう。一気にハオスとの距離が縮まれば、あとは剣でハオスの首を狙うだけだ。
しかし、やはり空中戦だと浮いたままのハオスの方が圧倒的に有利らしく、アイリスの二回目の攻撃は掠れることなく、終わってしまう。
「ははっ。無駄、無駄。大体、今の俺はお前の身体を一瞬で消し炭に出来るくらいに力を持っているんだぜ? 子どものお遊びみたいな装備で勝てると思わないことだ――なッ!?」
ハオスが喋っていた途中で、彼の身体は一瞬にして炎に包まれる。
ばっとアイリスが視線を向けると、魔法が放たれた方向には眼光を鋭く細めたまま、右手をハオスに向けているクロイドがいた。
クロイドは更に畳み掛けるように今度は左手を斜め下から上へと持ち上げるように薙いだ。クロイドの手袋の魔具から発生した風の鎌は、ハオスの細い首目掛けて真っすぐに飛んでくる。
だが、風の鎌が身体に触れる前にハオスは右手を突き出し、呪文を唱えないまま一瞬にしてクロイドの魔法を消し去った。
不意打ちならば、まだ攻撃を与えられるだろうが、真正面からだとハオスに隙は見られないようだ。
「こ、のっ……! 人が話している時に、邪魔すんじゃねぇよ、犬っころ!!」
「……」
ハオスから侮辱の言葉を受けても、クロイドの瞳は冷たいままだ。やはり、彼もハオスに対しては強い怒りを抱いているのだろう。
「――放てぇっ!」
瞬間、聞こえたのはアレクシアの怒号にも似た声だった。
声がした方向からハオスに向かって来るのは、最大火力が集結したような巨大な炎の塊で、普通の人間が触れれば火傷程度で済まないと分かる程の威力だ。
炎の塊は一瞬にして、ハオスの身体を取り込んでは激しく燃やしていく。かなりの熱量であるため、ハオスの服は一瞬にして消え去るも、その細い身体はまだ焼けただれることはない。
それでも、じりじりと身を焦がしているのか、鼻を掠める匂いは腐った肉を焼いているよりも強烈で思わず、鼻をつまみたくなってしまう。
ハオスと距離を開けているアイリスのもとにまで、炎の塊から零れだす熱風が吹き通っていった。
「ぎゃははっ! こいつぁ、いいね!! 熱い! 熱いぞ!!」
だが、炎の中のハオスはその身を焦がしているにも関わらず、子どもが初めての火遊びをしているように愉快な笑い声を上げているだけだ。
「……何て奴だ……」
炎の中で笑い声を上げているハオスに対し、アレクシアが強張った表情で小さく呟いたのが、アイリスの耳にははっきりと聞こえていた。
「――だけどなぁ、まだ足りねぇんだよ!」
ハオスは歯を見せるように笑うと、交差させた両手を一気に振りほどくような動作をした。その一瞬で、彼を焼き尽くそうとしていた炎の塊はまるで鎮火されたように瞬時に消え去ったのである。
「おいおい、これでも少女の身体なんだぜ? 死体とは言え、恥を晒させるなよなぁ?」
ハオスの白い陶器のような肌は赤く焼けていたにも関わらず、彼が右手で指を鳴らした瞬間、胸元の紅い石が輝きだし、ハオスの身体を元の白い肌へとゆっくりと戻していく。
今度は左手でハオスが指を鳴らせば、焼け焦げていた衣服の欠片が彼の右手の掌に集まり、少しずつ形を大きいものへと変えていく。
……うそでしょう。こんなの、物理の法則に反しているわ。
アイリスの目には信じられない光景が映っていた。
無と化したハオスの衣服は、集められた灰の欠片によって再び元の繊維へと戻り、服が高速で仕立て上げられたように、あっと言う間に一着のローブとなったのである。
先程と同じ、ローブ姿へと戻ったハオスはわざとらしい溜息を吐いて、肩を竦めていた。
「全く……。無駄な抵抗なんかしないで、お前らは大人しく、餌になっておけばいいんだよ」
「餌だと……?」
低い声色でアレクシアが訊ね返すとハオスはその言葉を鼻で笑っていた。
「一体何を……」
「――ぎゃああっ!」
ハオスの言葉の意味を詳しく聞こうとしていたアレクシアの言葉は誰かの悲鳴によって途中で遮られることとなった。
アイリスも悲鳴がした方向へとすぐに顔を向ける。
そこには地面の上に倒れている団員の男の姿があった。団員の若い男は腹部を折り曲げて倒れており、もがくように身体を揺らしては、表情を苦しげに顰めている。
……何が起きているの。
見えたのは、団員の男の腹部に張り付いている昆虫型の小型の魔物だった。
魔物は針のようなもので男の腹部を突き刺しており、男が何とか張り付く魔物を取ろうと手で触れるも、魔物自体に防御魔法がかかっているのか、男の手は弾き返されていた。
「あー、無理矢理に剥がそうとしたって無駄だぜ? そいつらは身体に溜め込むだけ、溜め込まないと、抜けないようになっているから」
小型の魔物が張り付いた男は痛みによって声を上げている。しかし、気付けば、この団員の男と同じような現象が周囲では起き始めていた。
「ああぁっ!!」
「っぐあ……」
「うあぁっ……!」
方々で聞こえて来るのは、全て団員達の声で、それぞれの身体に小型の魔物がぴったりと張り付いては、針のようなものを身体に突き刺していた。
悲鳴が更に悲鳴を呼び、その場は大混乱を起こしていく。アイリスは目の前で起きていることが現実なのかと目を見開いたまま周囲を見渡した。
逃げ惑う者、果敢に魔物と対峙する者、倒れる者。
狂乱という言葉が似合う光景に絶句せずにはいられなかった。
「暁編」の「悪夢」のお話を大幅に加筆しました。主に後半部分にクロイド視点を追加しています。
その後の話に影響はないですが、もし宜しければ、読んでいただけると幸いです。




