落下
上空に緑色の魔法陣が見えたアイリスは思わず、引き攣った声で言葉を吐き出していた。
「っ……! 召喚、魔法……!」
アイリスの言葉通り、上空に出現した緑色の魔法陣から黒い大きな影がその身を抜け出すように這い出て来る。
「……魔物だ」
隣のクロイドが有り得ないと言わんばかりの声色で小さく呟く。見上げた視界に大きく映っている影はこちらの想像以上の大きさなのだろう。
その影は魔法陣から姿を全て、上空へと現すとそのまま落下するように教団の結界へと直撃してきたのである。
――ドゴォォォン!
再び、先程と同じ衝撃と轟音がその場に響き渡っていく。さすがに数度目となる振動に慣れたのか、地面の上に倒れている団員は少なかった。それでも、動揺を隠せない者は多く居た。
アイリスも出来るだけ表情に出ないようにしていたが、未知の出来事に戸惑わないわけがない。
「……また、破かれたな」
クロイドが眉を寄せつつ、忌々しげに呟いたため、アイリスは勢いよく彼の方へと振り返った。
「そんなっ……。即席とは言え、黒杖司が作った結界なのよ?」
「それだけ、魔物の一体ずつが持つ爆散する力が強大なんだろう。……どれだけの魔力をあの魔物の中に溜め込んでいると言うんだ……」
クロイドの最後の一言に、アイリスも思わず顔を顰めてしまう。
何者かが意図的に魔物を爆散させて、結界を破壊したという事実こそが全てで、それを行なった者は間違いなく教団の敵だ。それだけは確かだった。
「何が起きているというの……」
「あの影、魔物?」
「攻撃か? 一体、誰が……」
不安な表情の団員達による様々な憶測が飛び交う中、黒杖を持って空を睨んでいたアレクシアが小さく舌打ちしていた。
「……やはり、即席の結界じゃあ簡単に破られるか。――至急、ハロルドを呼んできてくれ!」
大声でアレクシアが叫んだ瞬間、上空の結界が破壊されているにも関わらず、次の魔法陣が瞬時に出現する。その大きさは先程、爆散して散っていった影よりも数倍の大きさだった。
「――来る」
クロイドがそう呟いた瞬間、魔法陣の中から再び黒い影の姿が少しずつ下ろされるように現れてくる。
アレクシアは結界を先に張るよりも敵の出現の方が早いと覚ったのか、彼女はその場にいる者達全てに聞こえる声量で叫んだ。
「――全員、後方に退避!!」
響き渡る号令に、団員達は見上げていた顔を自分の背後を振り返るように向きを変えて、慌てた様子で下がっていく。アイリスとクロイドも周りの団員達に接触しないように注意しながら、急いで後方へと下がった。
結界が解かれ、空白となった場所に遮るものは何もない。上空に現れた影はそのまま、教団の運動場目掛けて、落下してくる。
「っ――!」
勢いよく落ちて来る音だけで、その重量がどれくらいのものなのか、何となく察してしまったアイリスは短い声を上げた。
あんなものが自分達の上に落ちてくれば、一瞬にして踏みつぶされるに決まっている。
「透き通る盾!」
衝撃が来ると察したクロイドがアイリスの前に一歩出て、すぐさま結界魔法を展開させる。
それが間に合ったおかげなのか、大きな影が運動場に着地するように落下した瞬間の暴風からアイリス達は何とか逃れることが出来た。
周りには防御が間に合わなかったのか、響き渡る振動と轟音、そして砂塵を巻き込んだ暴風の衝撃を直接受けた者達がかなり後方まで飛ばされており、倒れている者が多数見受けられた。
「……アイリス、平気か?」
結界を展開したクロイドがすぐに隣に立っている自分の方へ振り返り、安全を確認してくる。
「ええ、私なら大丈夫よ」
アイリスは周りを見渡して、被害が出ていないか確認してみる。
アレクシアの指示で皆が瞬時に後方へと下がったおかげなのか、大きな影の落下によって起こった風に吹き飛ばされた者はいても、怪我をしている者はいないようだ。
その事に安堵しつつも、アイリスとクロイドは砂塵が舞う中、真正面に落ちて来た何かをじっと見据える。
「……やはり、こいつだったか」
「え?」
クロイドが恨むような声で呟きながら、砂塵の中に見える大きな影に鋭い視線を向けていた。恐らく、何かの魔力を感じ取ったのだろう。クロイドの表情は今までで一番険しいものになっていた。
前方で落ちて来る魔物に対して防御に徹していたのか、やがて結界の中で真っすぐと立っているアレクシアの姿が見え始める。
アレクシアは持っている黒杖で二度、地面を叩くように音を鳴らした。瞬間、その場に舞っていた砂塵はアレクシアの無詠唱の風魔法によって、吹き飛ぶように過ぎ去っていく。
一瞬にして晴れ渡った視界の先には、黒杖を掴んだまま落ちて来たものを睨むように見据えているアレクシアの姿があった。
アイリスも視線をアレクシアが睨む方向へとゆっくりと移してみる。
「っ!?」
だが、そこに腰を下ろしているものを見て、思わず引き攣ったような声を上げてしまいそうになった。
目の前にいたのは光沢を帯びた黒い殻を持つ昆虫に似たもので、数えきれないほどの手足が身体の下で蠢いている。
それだけではない。その昆虫らしきものの大きさは魔具調査課の部屋を二つ分連ねた程の大きさで、初めて見る超大型の魔物にアイリスは口を開けたまま、凝視していた。
これほどまでに大きな魔物を街中で見ることはない。せいぜい、人くらいの大きさの魔物ばかりだ。
人気のない森になら、大型の魔物もいるが、それでも目の前にいる昆虫らしき魔物の大きさには届かない。
「何、この魔物……」
「……」
アイリスがそう呟いてもクロイドが答えることはない。もちろん、その問いかけに答えられる者は他にもいないはずだ。
誰もが目を見開き、一体この魔物は何だという表情で固まっている。団員達の中にはすぐに己の武器を取り出し、戦闘態勢に入ろうとしている者もいた。
しかし、アイリスも武器を取り出そうとしても、持っているのは試合用の木製の長剣だ。魔物相手にただの木製の剣が通じるわけがない。
「自ら教団の敷地内に入って来るとは――死に急ぎたいようだな」
結界を解いたアレクシアが黒杖を構えながら、一歩前へと出る。現れた魔物を討伐するつもりなのだろう。
だが、アイリスは何故か胸の辺りが、靄がかかったような妙に気分の悪い感覚に襲われていた。
……どうして、こんなにも胸騒ぎがするの。
アイリスの抱く不安は次の瞬間、答えとして返って来る。
何かを感じたのか、クロイドが更に目を細めて、アイリスを守るようにもう一歩前へと出た。
暑い時期だというのに、肌にぴりっと冷たい電撃が走ったような感覚がかすめていく。アイリスは跳ねるように脈打つ心臓が喉から出そうになるのを押し留めながら、唾を飲み込んだ。
何もない空間にばちっと火花が散るように何度かはじけ飛ぶと、昆虫の魔物の殻の上に緑色の魔法陣が瞬時に現れる。
次に何かが召喚されるのだと、理解した時にはすでに、魔法陣からゆっくりと細くて白い子どもの足が見え始めていた。
そのあまりの白さに、アイリスは身震いしそうになった。その身体がまるで、死体が持つ白さに思えたからだ。
「――ああ、やっと入れたぜ」
魔法陣からゆっくりと出現した影が、呆れたような言葉が呟く。舌足らずな声色にもかかわらず、耳障りだと思えてしまうその声に、アイリスは驚きの表情で目を見開いた。
「全部で何体だ? えーっと、5体か。思ったよりも使ったな。まぁ、教団の結界がそんなに軟じゃねぇのは分かっていたけど」
引き攣るように笑いながら、その声の主は緑色の魔法陣から全身を現した。
陶器のように白い肌を包み込むのは丈の長すぎる黒いローブ。腰よりも長い艶やかな黒髪はうなじ辺りで二又に分かれており、顔の額には何かの文様が描かれている。
「……混沌を望む者」
クロイドの言葉が頭の中で反響していく。
どうして、何故、奴がここに。
そう思っていても、吐き出すことは出来ない。吐き出しても意味がないからだ。
目の前にある無邪気さの中に残虐さを隠した表情がアイリス達の方を見て、にやりと笑った。脳裏に張り付くように残る出来事を起こしたその笑みを忘れるわけがない。
「よぉ、初めましてだな、教団の諸君。ぬるま湯に浸かったお前らと遊びに来てやったぜ!」
黒と金の瞳を備えたハオスの両目が何かを味わうようにゆっくりと細められていた。




