出現
アイリスはクロイドの隣を走りつつ、疑問に思っていた言葉を続ける。
「……でも、一体誰が、結界を壊そうとしていると言うの」
「……」
クロイドの表情はまだ確信を得ていないと、言わんばかりに少し気難しい顔をしていた。恐らく、彼だけでなく、他の団員達も何故、このような事態が起きているのかと思っているのだろう。
教団の結界に攻撃をしてくるということは、教団に敵意を向けているということだ。
世界には「嘆きの夜明け団」の他にも魔法を専門とする組織が他国にいくつか存在していると聞いている。
もちろん、お互いに干渉しない協定を昔から結んでいるため、外国に出張の任務の際にはその国で魔法を使う行為は、目立つ行動をしないという条件付きで黙認されていた。
組織がそれぞれ持っている魔法や属している魔法使いの情報を与えないという協定が結ばれており、更に魔法による戦争は絶対に起こしてはいけないと決められている。
魔法による戦争が起きれば、その被害は魔力を持たない者達も巻き込み、国同士に大きな惨劇しか生まないからである。
だが、現在の時点で対立している魔法専門組織などないはずだと首を傾げるしかない。
それならば、個人による教団への攻撃だろうか。組織による対立はなくても、教団に対して個人的に恨みを持っている魔法使いなら、いないとは限らない。
もう、そうならばこの国で一番強固とされている教団の結界を攻撃をしてくる者の魔力は想像以上に高いものだろう。
「クロイド?」
「……魔力の波動が、あいつだったんだ」
「え?」
もう一度、アイリスが聞き返そうとしていると、三度目となる地響きと轟音が地面を大きく揺らしたのである。
それは今までで一番大きな音と揺れだった。そして、間近に雷が落ちたのかと思うほど、何かを切り裂く音が激しく響いていく。
「うわっ……」
「ひゃ……」
「な、何なんだ!?」
アイリス達の周りにいた団員達も激しい音に耳を塞ぐ者もいれば、大きな揺れによって体勢を崩して、尻餅を着く者でその場は溢れていく。
「きゃ……」
アイリスも、三度目となる地響きによって身体が大きく揺れたが、クロイドが腕を掴んでくれていたおかげで、膝を崩すことはなかった。
「大丈夫か」
「え、ええ……。ありがとう、クロイド」
クロイドに軽くお礼を言いつつ、アイリスは自分の足に力を入れて再び真っすぐと立ち上がる。
「……まずいぞ。結界が破られた」
「えっ……」
クロイドは早口にそう告げると、再びアイリスの手を引いて走り始めた。魔法部門の試合が行われている運動場まですぐそこだった。
運動場には魔法部門の試合に参加、応援していた者達だけでなく、武術部門の方から様子を見に来た者達で溢れており、その場にいるほとんどの団員達が空を見上げて、口をぽかりと開けていた。
何が起きているのか、全く理解出来ていないと言った様子だ。
アイリスとクロイドもその一団の中に加わりつつ、空を見上げる。隣のクロイドは眉を深く内側へと寄せて、空を睨むように見ていた。
意識しているのか分からないが、アイリスの手首を握るクロイドの手に更に力が込められる。
周りの団員達も、教団の結界が破られたことに気付いているのか顔面が蒼白となっている者もいた。動揺が広がりそうになる前に、一つの声がその場に響く。
「――皆、後ろへ下がりなさい」
厳格と冷静さを備えた、はっきりとした声音がその場に残るように響き、団員達の間から一人の人物が人込みを割って、前へと出て来る。
「あ……」
アイリスはその声の持ち主を見て、思わず小さく呟いていた。
総帥の下に位置している「三碧の黒杖」であるアレクシア・ケイン・ハワードだ。
70近いはずだが、彼女は真っすぐと背筋を伸ばし、額に青筋を浮かべながら、運動場の真ん中へと早足でやってくる。
教団の結界に異変が及んでいることをすぐに察知したらしく、彼女は黒く長い杖をすでに構えていた。
結界が破られたことに動揺している団員達に新しい不安を植え付けないためなのか、アレクシアは一言も言葉を呟かないまま、空を見据えている。
アイリスも同じように空を見上げるが、何も変哲のない晴天が広がっているだけで、ここからでは結界が破れたのか確認することは出来ない。
「……全く、結界魔法はエルベート家の方が得意だろうに」
それだけ呟くと、アレクシアは無詠唱のまま、黒杖で二度地面を叩くように音を鳴らす。
――キンッ。
弦が張り詰めた音が一瞬だけ響くと共に、その場に安堵の溜息が広がっていく。
結界は地上からかなり離れた場所に形成されているはずなので、ここからでは確認することは出来ない。魔力無しのアイリスには感じられないが、教団を覆っている結界が修復されていっているのだろう。
だが、教団の広さは決して半端な広さではない。この国で一番広い敷地を誇るイグノラント王宮に匹敵する程の面積が広がっているため、いくら「黒杖司」でもたった一人で敷地全体に結界を張るには並外れた高い魔力と精神力が必要となってくるはずだ。
それでもアレクシアの表情は少しも変わらず、ただ破れた結界を修復することだけに集中している。
ある程度の結界の修復が終わったのか、ふっとアレクシアが顔を上げた。
「……とりあえず、一時的な結界の修復は済んだ。今すぐハロルドを呼んで来てくれ。恐らく、塔の研究室に籠っているだろう」
アレクシアはすぐ近くにいた試合の審判をしていた団員に声をかけて、教団の中で最も結界魔法が得意であるエルベート家の長でもあり、彼女と同じ三碧の黒杖の一人であるハロルド・カデナ・エルベートの名を指名する。
魔法の研究を好んでいるハロルドは自身の研究室に常に籠っており、行事や重要な用事が無ければ中々外に出て来ないらしい。
それでも元々、お喋りな気質があるため、一度言葉を交わせば彼が編み出した魔法の理論を延々と聞かされる、という話をいつだったか耳に挟んだことがあった。
「皆の者! すまないが、教団を覆う結界が完全に張り直されるまで、武闘大会は一時中断とする」
結界を張り直すというのならば、それなりの準備が必要なのだろう。そのことを理解している団員達は仕方なさそうに頷いていた。
だが、この時、アレクシアは結界についての説明はしているが、何者によって、何故結界が破られたのかについては公言しなかった。
団員達に余計な心配をかけさせないためなのか、それとも彼女自身、何か思うところがあって、敢えて言わなかったのかは分からない。
「とりあえず一時間程、それぞれの課に戻って、待機を――」
アレクシアがそう告げようとした時だった。
――ドゴォォォンッ!!
4度目となる地響きと轟音が反響し、その場に集まっていた者達全ての身体を揺らす。
この時、アイリスははっきりと見ていた。結界の外である上空に一つの大きな影が映ったと同時に、結界に触れた瞬間に爆散するように何かが消え去った光景を。
……何だったの、今の影は……。
地上から上空までかなり距離があるにも関わらず、視界で大きく見えたということは、こちらの想像以上の大きい何かがそこにいたのだ。
それでも、その黒い影はアレクシアによって修復された結界に接触し、一瞬にして消滅していた。教団の結界には敵意ある者による攻撃と判断したものに対して瞬間的に発動する防御魔法がかけられている。
その防御魔法は普通の結界魔法とは違って、かなり特殊なものになっており、受けた攻撃をそのまま消滅させる構造となっていたはずだ。
だが、アイリスが目撃した光景は、何かの影が結界による防御をわざとその身に受けて爆散し、結界の力を弱めようとしているように見えたのだ。
……今までの地響きと轟音の正体が今の大きい物体と同じものが接触して起きていたということ?
しかし、クロイドはこの地響きと轟音が発生した瞬間に魔力を感じたと言っていた。推測するには情報が少なすぎる上に、今は考えを深く巡らせる暇はない。
「なっ……!」
アレクシアが眉をひそめ、再び黒杖を構える。もう一度、結界を張り直そうとする前に、上空に再び黒く大きな影が出現した。
いや、違う。あれは突如として出現したわけではない。アイリスは太陽に直接、瞳を当てないように細目になりつつ、上空を見上げた。
見えたのは、緑色の大きな魔法陣。
そこから、大きな影が這い出るように姿を現していたのである。




