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所以



 ――そこは、深い深い淀みの中だった。動けば動くほど、身体にまとわりつく重い何かは、自分から離れようとはせず、付いて来てしまう。


 よく見えない。視界が薄暗いため、黒い液体状のものが身体に張り付いているようにしか見えなかった。 

 ここはどこだ。何と空気が濃く、重い場所なのだろう。


 一歩ずつ前に進もうとしても、その足取りは沼に落ちた両脚のように重く感じられたため、早く動くことは出来ない。

 ふと、息をすることを意識すれば、鼻を強く掠めていくのは慣れた匂いだった。


 ……血の匂い。


 自分はこの匂いを嫌という程に知っている。そして、自分の両手は血の匂いが付いて、落ちないものとなってしまっているのだ。


 それでも、もっと魔物を狩り続けなければならない。狩り続けて、自分は進んでいかなければならない。その先に待つ、仇を討ち倒すために――。


 ――それなのに。

 どうして、こんなにも胸の奥が苦しいのか。まるで箱に無理矢理に押し込められた人形のような気分だ。


 ……ああ、そうね。私は人形だわ。


 家族を自分から奪った敵を殺す事だけを目的として生きていた。両手を見て見れば、真っ黒の液状だと思っていたものはいつの間にか真っ赤なものがべっとりと付いていた。


 真紅、それは自分にふさわしい色だ。色を見るたびに思い出す。

 後悔と自責、憂愁と絶望。


 しかし、アイリスはふっと笑った。この笑みは誰かを癒すような笑みではない。

 自分は剣。敵は殺す。


 それでも、心に響く柔らかい声が自分を遠くから呼んでいるような気がして、アイリスは後ろを振り返る。


 ……誰かが、私を呼んでいる。


 優しく、柔らかい声が自分の名前を呼ぶたびに、冷たかった身体と心に温かみが増していく気がした。

呼んでいるならば、行かなければならない。待たせてはいけないだろう。

 

 アイリスは進んでいた方向から、真後ろへと身体の向きを変えて、再び歩き出す。ゆっくりと、ゆっくりと進みだす。


 ……さっきよりも、身体が軽い気がする。


 どこに向かっているのかは分からない。それでも、この淀んだ世界の中で、柔らかな声だけが自分の道標になっているような気がした。


 自分の名を呼ぶ柔らかな声は、途切れることなく、ずっと響いていた。



・・・・・・・・・・・・・



 意識がそこにあると自覚した時、身体が何故か重く感じたアイリスは小さく呻いた。


「う……」


 何か嫌な気分が胸の奥に残っているような感覚だ。深く息を吐いて、そして新しい空気を無理矢理に肺に入れるように吸い込んだ。閉じていた瞳をゆっくりと開けるとそこには白い天井があるだけだ。

 アイリスは身体を身じろいで、そして自分が何故かベッドの上に寝かされていることに気付く。


「……」


 身体が重い上に、左横腹に鈍い痛みを感じたアイリスは思わず顔を顰めて、手をそっと添えた。優しく触れるたびに、横腹に存在している痛みは大きいものとなる。


 ……試合で怪我したのかしら。


 あまり、刺激を与えて悪化させない方が良いだろうと、アイリスは横腹に触れていた手を一度下ろした。


 両手を使って重い身体を起こせば、自分がどこのベッドの上で寝ているのかが瞬時に頭で認識し始める。


「え? ……医務室?」


 白いベッドと白い天井、そしてベッドを囲むように覆っているカーテンは何度も見慣れた医務室の光景と同じだ。

 どうして自分は医務室のベッドの上にいるのか、いやそもそも、どうして寝ていたのかが思い出せないアイリスは首を大きく捻る。


 すると、アイリスの声に気付いたのかカーテンの向こう側から一つの声がかけられた。


「――アイリス? 起きたのか」


「クロイド?」


 クロイドがすぐ傍で控えていたらしい。アイリスは自分の服が乱れていないかを素早く確認した。


「……中に入ってもいいか」


「ええ」


 アイリスに一言断ってから、クロイドが少し遠慮がちにカーテンの内側へと入って来る。その表情は試合前に見たものよりも遥かに暗く、思い詰めているようにも見えた。


 ……どうしたのかしら。


 自分がベッドの上で寝かされている間に何かあったのだろうか。クロイドはベッドの隣に置いてあった椅子を手身近に引き寄せると、そこに深く腰掛けた。何か自分に話があるのか、彼は口を開いては迷う素振りをして、再び閉じた。


 だが、彼から話される内容が何も思いつかないアイリスは首を傾げ、そして思いついたことをクロイドに訊ねてみる。


「……ねぇ、どうして私、医務室にいるの? あ、試合は? 私の試合はどうなったの?」


「……覚えていないのか」


「うーん……。何故か、記憶があやふやなのよね。……試合に集中していた途中までは覚えているんだけれど」


 その後のことを詳しく覚えていないと告げるとクロイドは唇を小さく噛む仕草をしていた。この仕草をする時、大抵の場合、クロイドが何かに耐えている時だと知っている。

 一つ、クロイドが深い溜息を吐いてから、何かを決意したように顔を上げる。


「試合は君が勝った」


「……そう」


 勝ったと言われても、あまり自覚がないので、アイリスは不審な表情のまま頷き返す。


「途中で……」


「え?」


 絞り出すような声がクロイドから零され、アイリスは何と言ったのか聞き取れなかったため、聞き返した。


「途中で、試合会場にブレアさんが乱入してきたことは、覚えているか」


「ブレアさんが……?」


 アイリスは右手を口元に当てつつ、記憶の中からブレアの姿を探す。しかし、それでもやはりブレアの姿を記憶の中から探し出すことは出来なかった。


 ……どうして覚えていないのかしら。


 頭の中に何かが引っかかったままで、記憶の戸を開けようとしても中々開けられない、奇妙な感覚に違和感だけが残ってしまう。


「……ブレアさんが、何故アイリスの試合に乱入したのか、その理由は分かっているか?」


「……」


 重い空気が漂い始め、アイリスは眉間に小さくしわを寄せる。そして、クロイドの問いかけに答えるように横に首を振った。


「……君を止めるためだ」


「私を?」


 何を言っているんだと言わんばかりにアイリスが首を傾げると、クロイドはもう一度息を深く吐いてから、言葉を続けた。


「……試合途中で、君は自意識を手放していただろう」


「……」


 問いかけられる言葉に、アイリスは返すことが出来なかった。つまり、自分の記憶が途中からすっぽり抜けて落ちているのは、自意識を手放したまま、試合を続行していたからだろうか。


「君が自意識を手放したあとは、敵を倒すまで剣を振るい続けていると聞いている。傍から見れば……君の試合中の動きはいつもと違っているように見えた」


 そこで一度、クロイドは言葉を濁して、続きを話す。


「……あの動き方は相手に絶対的な死を与えるための、動き方だった」


 クロイドは以前、王宮に居た際に剣術と武術をそれなりに習っていた。その経験から、アイリスが試合の最中で起こした動きを不審に思ったということだろう。


「……私が、ただの試合で暴走したって言うの?」


「……そうだ」


 クロイドは頷きたくはなかったのだろう。しかし、悔いるような表情で、自分の言葉を肯定した。


「君は確実に試合相手のケルン・スミスを殺そうとしていた。もちろん、君にその気がないのは分かっている。だから……試合を傍から見ていたブレアさんは君の異変に気付いて、無理矢理に君を止めたんだ」


「……」


 言葉を何か、言わなければと分かっているのに、伝えることは出来なかった。


 「真紅の(クリムゾン・)破壊者(クラッシャー)」の忌み名で呼ばれている所以の一つだ。意識してやっているわけではないが、物を壊しすぎる上に、敵と思ったもの全てを形ないものへと変えるため、その名で呼ばれている。


 一年前から、そのような状態へと時折、陥ることがあるのは分かり切っていたことだ。自分は敵と思ったものを原形がなくなるまで「殺し続ける」のだ。

 たとえ、相手の息の根が止まっていたとしても、その衝動が止まることはない。そして、敵を全て滅した後は、気力を使い切ったように倒れるのだ。


 それを傍から見れば、異常と思える光景に恐怖を抱く者もいただろう。無意識で、自意識を手放しているなんて、可笑しな話だ。


 ブレアとミレットだけが知っている、自分の心の中に飼っている獅子は時として、無慈悲で容赦がない牙を相手に剥く。

 それをクロイドに見られたのだ。


 それだけではない。自分の意思が弱いせいで、試合相手であるケルン・スミスも傷付けることとなってしまったのだろう。


 武闘大会の試合中、急所を狙ってはいけないと決まっている。自分のこの手に残る剣の感触はケルンの急所を狙ってしまったのだろうか。


 思い出そうとしても、本当に途中から記憶が抜け落ちていて、全く思い出せないにも関わらず、空の右手にはまだ、剣を握っているような感触がしっかりと存在していた。



    


ペケさんの作品「ペケさんは今日も語る」で「真紅の破壊者と黒の咎人」を紹介して頂きました。

もし宜しければ、ご覧くださいませ。

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