深み
風を斬る音は容赦なく、空気を引き裂いていく。
床に背中を付けて倒れているケルンは頭上から振り下ろされるアイリスの短剣を見て、目を大きく見開き、そして瞼を強く閉じた。
ケルンの抵抗を諦めたその表情に対して、アイリスが浮かべているのは暗い深淵から覗き込むような表情だった。
抵抗しない相手にアイリスはそのまま短剣を振り下ろす。誰かの引き攣った声が耳から耳へと通り過ぎ去って、アイリスの心に残ることは無かった。
だが、その刹那、夏風のように爽やかな匂いがふわりとアイリスの隣を駆け抜けていく。
次の瞬間、その場に響いたのは渇いているのに、重みを含んだ音だった。
アイリスの握っていた短剣が何かに接触し、耳に残る音を立てる。
「……」
アイリスがケルンの頭目掛けて振り下ろした短剣は、空中で動きを止めたままだ。そのまま振り下ろすために力を加えても、微塵も動くことがないまま、短剣は制止した状態が続く。
何故、この腕は動かないのだろう。
自分は、敵を倒さなければいけないのに、動かない。
そう思っていると、嗅ぎ慣れた匂いが微かに鼻を掠めた。
「――やめろ、アイリス」
冷たさを含んだ声が、アイリスのすぐ隣で聞こえたため、振り下ろす短剣を握ったまま、アイリスは顔を右側へとゆっくり動かした。
そこには眉間にしわを深く刻み、苦い表情をしているブレアが片膝を立てながら、すぐ隣にいた。
今のアイリスには何故、ブレアが自分の試合会場にいるのだろうかと冷静に思考を巡らせることさえ出来なかった。
ブレアはアイリスの短剣がケルンに振り下ろされないように、木製の長剣の平で短剣の刃先を器用に受け止めており、少しずつ力を加えて、押し返してくる。
引き戻される腕は少しずつ、後退していった。ブレアが長剣に込めている力は手加減がないほどに強いものだった。
「終わった。勝負は終わったんだ、アイリス」
氷のように冷たい声は、諭すように静かに呟かれる。ブレアの瞳は真っすぐとアイリスだけを映していた。
その視線に強い力が宿っているのか、アイリスは見られることを良く思わず、すっと視線を逸らした。
「剣をおさめろ。抵抗なき者に剣を振るうなと教えたはずだぞ」
「……」
アイリスは無言のまま、ブレアの言葉を耳に入れていく。
ケルンに振り下ろしていた短剣はとうとう、ブレアの長剣によって弾き返され、アイリスはその反動で後ろへと、しりもちを付くように倒れた。
背中に痛みを感じても、それを痛いと思うことがないまま、アイリスは短剣を握り続ける。
しかし、アイリスの手に握られていた短剣はすぐさまブレアの右足によって、遠慮なく強く蹴られ、数メートル先へと飛んで行く。
手から離れた木製の剣の欠片を再び気に留めることないまま、床に倒れた身体をアイリスはすぐに戦えるようにと勢いをつけて跳ね起こした。
「アイリス、聞け。――試合は終わった。お前の勝ちだ」
「……」
ブレアは左手で握った長剣の剣先をアイリスに向けて牽制しつつ、倒れていたケルンを支えるように右手で抱え起こした。
「ごほぉっ……」
アイリスに圧し掛かられていたケルンは軽く咳き込みながら、その身体をゆっくりと起こした。表情は歪んでおり、何度か深呼吸しながら、息を整えている。
「ああ、びっくりした……」
「すまないな、ケルン・スミス。……審判、試合判定を」
ブレアはケルンを気遣いながら、試合の様子を見守っていた審判に向けて静かに告げる。
審判はアイリス達の試合を呆然としながら見ていたらしく突然、試合会場に乱入してきたブレアの姿に対して、注意する言葉がないまま、右手を真っ直ぐと上げた。
「しょ、勝者――アイリス・ローレンス!」
勝利の判定が決まったというのに、アイリスの視線はぼんやりと定まっておらず、意識も呆けたままだ。表情も色はなく、ただ無言でケルンとブレアの方向に視線を向けている。
ケルンを立たせてから、会場の外へと見送った後、ブレアは審判に向けて右手を軽く挙げてから、試合を一時的に中断するように示した。
「アイリス」
ブレアは突っ立ったままのアイリスの元へと早足で駆け寄ると左肩へとそっと手を置いて来る。その細い肩がブレアによって触れられた瞬間、アイリスは一瞬だけ身体を震わせた。
「おい、アイリス」
「……ブレア、さん」
数度、名前を呼ばれたアイリスは何かに気付いたように、ブレアの名前を呼ぶ。
「しっかりしろ」
「……私、は」
アイリスの視線はゆっくりと試合会場から退場したケルンへと向けられる。ケルンの傍には救護班らしき人物が立っており、アイリスの攻撃によって受けた傷の治療を魔法で施しているようだった。
「――アイリス!」
ブレアではない、少し若く低い声で名前を呼ばれたアイリスは後ろを振り返る。切羽詰まったような表情のクロイドがこちらに向かって走ってきていた。
クロイドはアイリスの表情を見るなり、一度動きを止めてから、悲痛な表情のままその視線をブレアへと向ける。
クロイドの訴えかけるような視線にブレアは小さく首を横に振った。
「クロイド、アイリスをとりあえず会場外へと移動させてくれ。……ここは視線が多いからな」
「……はい」
ブレアの手がアイリスの肩からそっと離れて、今度はクロイドがアイリスの背中へと手を回してくる。 その間にブレアはアイリスが使っていた木製の剣の欠片を拾い上げて、審判に試合の続行を促していた。
一度は静寂に包まれた試合会場も、再び次の試合の準備が始まると何事もなかったように、多方からざわめきが聞こえ始める。それでも、アイリスの耳にははっきりと届くことはなかった。
「……アイリス」
背中を支えるように手を添えているクロイドがアイリスの顔色を窺いながら、言葉をかけてくる。
言葉は耳に入って来るのに、名前が呼ばれているのだと頭で認識するのに時間がかかってしまう。
「……クロイド」
ぼそりと名前を呟くと、クロイドはどこか安堵したような溜息を軽く吐いているようだった。しかし、その理由が分からないまま、アイリスはか細い声で言葉を続ける。
「ねぇ……。私……」
試合会場を出て、アイリスはぴたりと足を止める。
応援席がある数メートル先には、アイリスを心配しているのか、強張った表情のミレットとエリックの姿が視界に映っているのに、それさえも気にしないまま言葉を紡ぐ。
「私は……」
しかし、言葉を続ける前にアイリスの身体はゆらりと動く。まるで、動くための操り糸が切れた人形のように、細身の身体は前のめりに倒れ始めた。
「っ!?」
「アイリス!」
柔らかい腕が自分を抱えるように触れても、反応することが出来ずにアイリスの意識はその場から離れていく。
いくつもの声が名前を呼んでいるにも関わらず、アイリスの意識は遠く、深みへと落ち続けていった。




