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傷口



 ぽたりと、アイリスの額から零れた血がセングの頬へと降りかかる。

 ふっと息を吐いて、アイリスは剣先を更にセングの首元へ近づけた。これが人の身を斬る真剣だったならば、今頃彼の首からは血が噴き出ているだろう。


「……こ、降参する」


 セングが両手を上げて、参ったと言わんばかりに首を横に振っている。


「……」


 アイリスは短く息を吐き出して、床に突き刺していた剣をセングに触れないようにゆっくりと抜き取る。そして、覆うように跨っていたセングの身体から、そっと離れた。


 セングが発した降参の言葉を勝敗の判定として受け入れたのだろう。審判が大きく頷き、アイリスの方に手の先を向けて叫んだ。


「――勝者、アイリス・ローレンス」


 勝者として、名前を呼ばれたにも関わらず、アイリスの気持ちは軽くはならなかった。

 心の中に生まれていたのは淀みだけで、それを持ったまま、喜んでいいのか分からなくなってしまったからである。


「――やっぱり、16位の腕は伊達じゃないな」


 それまで、倒れていたセングが自分でゆっくりと起き上り、自身の尻と腰をさすっていた。倒れた時に強打したのだろう。


「……怪我は無かったかしら」


「俺は平気だ。これでも毎日、鍛えているからな。……だが、足元を本当にすくわれるとは思っていなかったぜ」


 冗談のような物言いで、セングは苦笑している。魔物討伐課の人間にしては珍しく、彼は勝ち負けに対して強く引きずらない、さっぱりとした性格らしい。


「……なぁ、途中から……あんたの様子がおかしくなったように見えたが、気のせいか?」


 セングは首を傾げながら不思議そうにアイリスを見て来る。


「……」


 アイリスは無言のままで数歩、セングの方へと近付き、手を伸ばした。その行動にセングは一瞬、身構えるように身体を揺らしたのが見える。


「……気のせいじゃないかしら」


 アイリスはそう答えつつ、右腕のシャツの袖でセングの頬に付いた自身の血を軽く拭きとった。その行動をセングは驚いたような表情で見つめているだけだ。

 それだけ言い残して、アイリスは立ち去ろうとセングに背を向ける。


「――おい!」


 しかし、真後ろからすぐに呼び止められる声が聞こえて、アイリスは踏み出していた足を止めた。


「来年の試合までに、更に強くなっておくから、また手合わせしようぜ! ――アイリス・ローレンス!」


 セングは自分よりも年上のはずだが、そう言って右手を上げながら笑う姿は遊びを楽しむ無邪気な少年のように見えた。

 アイリスは微笑を薄く浮かべて、小さく頷き返す。



 そして再び、セングに背を向けて、アイリスは無表情のまま、応援席の方へと戻っていった。


 視界に映ったのは、目を見開いたまま固まっているクロイドの姿。

 彼が真っすぐと自分を見ている。


 ……あぁ。


 また、悲痛な表情でその黒い瞳に自分の姿を映している。彼がそんな表情をする必要はないはずなのに。


「――アイリス!」


 大声で叱責されるように名前を呼ばれたアイリスははっと我に返って、声がした方へと振り返る。そこには強張った表情のミレットがいた。


「……ミレット」


「こっちに来なさい。……怪我の手当をしないと」


「……怪我」


 言われている言葉は分かっているのに、頭にすんなりと入ってこないアイリスはミレットの言葉を復唱するように呟き返す。持っていた長剣を取り上げられて、アイリスは軽く背中を叩かれた。


「その顔のままだと、周りに心配かけるわよ」


 声を抑えつつ、ミレットはアイリスだけに聞こえる声量で囁いて来る。


 心配、誰が。

 誰の心配を。


 アイリスはぼうっとした意識のまま、ゆっくりとその場を見渡した。


 その場にいるのは魔具調査課の先輩達とエリック。そして、一番悲しそうな表情でこちらを見ているクロイドだ。

 全員がアイリスを心配するような、どこか困ったようにも見える表情で見ている。


「……心配……?」


 自分で呟いた言葉にアイリスは少しずつ、意識をはっきりと取り戻すように瞳に力を込める。


「……戻ってきたみたいね」


 安堵したように、ミレットが呟く。その言葉の意味がよく理解出来ないアイリスは聞き返さずに、眉を寄せた。


「――とりあえず、魔具調査課に戻ろうか」


 それまで成り行きを見守っていたナシルが取り仕切るように言葉をかけて来る。


「魔具調査課の面々が午前中に参加する試合はアイリスの試合で終わりだし、残りは午後からだ。少し早いが昼休憩を取りに行こう」


「……そういえば、セルディがお昼ご飯を全員分、用意してくれているんだったね」


 ナシルの提案に賛同するようにミカも短く頷く。


「多分、多めに料理が作られていると思うし、良かったらミレットとエリックもおいでよ」


「いいんですか? ……まぁ、最初からアイリスに付き添う気ではいますけど」


 ミレットはちらりとアイリスの方を見つつ、ミカの誘いに応える。


「うん。……それじゃあ、さっそく戻ろうかー」


 のんびりとしたミカの声に続くように、他の先輩達もその後に付いて行く。どうやら、全員で魔具調査課に戻るようだ。


「……リス。アイリス」


「え?」


 名前を呼ばれていたことにやっと気付いたアイリスははっとした表情でミレットの方に振り返る。


「魔具調査課、戻るわよ」


「え、あ……。うん」


「とにかく、今はこのハンカチで傷を押さえていなさい。……その顔のままだと、クロイドが失神しちゃうわ。……白いシャツの替えは持っているわよね? 時間があるなら、後で着替えて来るといいわ」


 ミレットはスカートのポケットから自前のハンカチを取り出すとアイリスの額にそれを無理矢理に押し付けて来た。ミレットが言う程なので、よほど血まみれの状態なのだろう。

 アイリスは自分でハンカチを押さえつつ、再びクロイドの方へと視線を向けた。


「……」


 そこには目を大きく見開き、血の気の引いた表情でアイリスをずっと見つめたままのクロイドがいた。 視線を交えても彼の表情に色が戻ることはない。


「クロイド?」


 アイリスが試しにゆっくりと名前を呼んでみると彼ははっとしたように、我に返っていた。


「……大丈夫、なのか」


 低く、小さな声で呟かれる言葉は覇気がないものだった。


「平気よ。掠り傷だもの。額を怪我すると、どうしても血が多く出ちゃうから、酷い傷のように見えるだけよ」


 何でもないと言わんばかりに答えてもクロイドの表情は晴れない。どうして、そんなにも暗い表情をしたままなのか。


 クロイドだけではない。何故か隣にいるミレットもクロイドと同じように暗い表情をしているのだ。


 ……傷を作るなんて、いつものことなのに。


 思わず首を傾げそうになっていると、目の前に薄っすらと涙を目元に浮かべながらエリックが近づいて来た。


「あ、アイリス先輩……。とりあえず、止血の魔法だけでも先にしませんか……」


 エリックが涙目になるほど、自分の顔の状態は酷いらしい。

 アイリスとしては、それほど深手を受けたようには思っていないが、皆が心配するなら、エリックに止血してもらおうと少しだけ、身体を屈んだ。


「それじゃあ、お願いね」


「は、はいっ」


 エリックは腕輪をはめた両手をアイリスの額へとかざしてくる。


「――とめどなく流れるもの、堰に阻まれよ。身に及ぶ痛みは風と共に消えよ」


 エリックによる治癒魔法が効いているのか、額は柔らかい温かさで包まれている気がした。


 この魔法は止血と止痛であるため、完全に傷を塞ぐものではないが、今は血を止める事が何よりも先だろう。でなければ、皆に心配をかけたままになってしまう。


「ありがとう、エリック」


「い、いえ……」


 アイリスはハンカチで顔を軽く拭き直して、ある程度の血を拭ってからその場に残っている三人に向けて笑みを見せる。


「もう大丈夫よ。……お昼ご飯を食べに魔具調査課に戻るのよね。行きましょう?」


「……」


 三人は複雑そうな表情で顔を見合わせている。それでもアイリスは、心配は要らないと伝えるために、無理に笑顔を作っていた。


    


「決別編」にマーレ視点である「手紙」「白い敵」の二つと、ブレア視点である「思い出の約束」の三つのお話を追加致しました。

どうぞ宜しくお願い致します。

 

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