無表情
魔具である手袋「黒き魔手」を両手にはめつつ、クロイドは深く息を吐いた。試合に対して緊張していないと言えば嘘になるが、その緊張も先程のアイリスの優しさによって、ある程度は拭われていた。
……まだ、手に感触が残っているな。
アイリスは彼女の両手で自分の右手を包み込み、そして祈るように彼女の額へと押し付けていた。その時の手の感触が自分の右手には残っており、それを確かめるように左手でそっと触れる。
……大丈夫だ。任務の時みたいに、いつも通りにやればいいだけ。
落ち着かせるように心の中で独り言を呟き、クロイドは両手にはめた手袋の感触を確かめる。この魔具を使い始めて、まだひと月も経っていないが、すでに身体に長年馴染んだもののように感じていた。
今までは魔犬化した手で魔法を放っていたが、魔具を魔力の媒体とすることに決めたのは、人目を気にして、いらぬ言葉をかけられないようにするためだ。
だが、おかげで魔具を使っての魔力の使い方が分かるようになり、あっという間にこの手袋を手に馴染ませることが出来た。
ここ数か月、自分が何のために必死に魔法を身に着けて来たのか、その理由は自分が一番理解している。
全てはアイリスを助けるため。その想いだけを胸に、静かに密かに魔法を身に着けて来た。
任務中、アイリスはよく思いがけない行動を取る事がある。そのような状況で、自分が助力出来ればと思って、補助系の魔法ばかりを最初覚えていたが、ここ最近は攻撃魔法も多く身につけるようになった。
アイリスを助けるためだけではなく、守るためにも必要なことは全部、身に着けるつもりだ。それはいつか来るかもしれない、自分達の仇である魔犬と戦う日に備えるためでもある。
アイリスはまだ、伝説級の魔物である魔犬を討つことを諦めてはいない。
それなら、自分も諦めて、この身に絶望したままではいられないと強く思えたのだ。
……自分で思っているよりも、アイリスが中心なんだな、俺は。
自嘲するわけではないが、クロイドは誰にも見られないように注意しながら口元を緩ませる。
依存していると言われれば、そうなのかもしれない。自分はアイリスの言葉も表情も生き方も存在も何もかも全てが好きで、そして――深く、愛おしいと思ってしまう。
狂う程までではないが、恐らくアイリスがいなくなれば自分がクロイド・ソルモンドとして保つことは出来ないと思える程にアイリスを自分の中の中心として置いていた。
それをアイリスが知れば、何と言うだろうか。彼女に対する感情が重すぎて、嫌がられないか少し不安だが、アイリスに嫌な表情をさせるつもりはない。
たまにアイリスに触れたいと思ったり、一歩を踏み出したくなるが、自分の中で抑え続ける程の気力と理性くらいは持っている。もちろん態度や言葉を表に出す気はないので、ずっと潜めたままにするつもりだ。
それこそ、エリオスが言っていた、いつか来るかもしれない未来までは我慢する気でいる。それぐらい容易く出来なければ、一人前の人間にはなれないだろう。
「……ふっ」
ついつい、余計なことを考えてしまったと口元が更に緩みそうになるのを抑えて、短く息を吐き、クロイドは会場へと入って来た試合相手の方を見る。
しかし、その顔を見てクロイドはすぐに眉を深く寄せていた。
少し年上くらいの青年は魔具である腕輪を両手にはめつつ、装備に不備な点がないか確認しているため、まだこちらには気づいていないようだ。
……確か、あの時一緒にいた……。
自分の試合相手は以前、魔法使用の許可を得て魔法課から出て来たところを突然絡んできた青年二人組のうちの一人だった。
確か、この男の名前はフランクと言ったはずだが、彼の相方らしき男と一緒にアイリスに対して侮辱したような物言いをしたことをはっきりと覚えている。
……あまり、根に持つ性格ではないはずだが、意外と言われた言葉も向けられた感情も覚えているものだな。
自分に対してだけならば、侮辱や挑発するような言葉をかけられるのは王子だった頃から言われ慣れている。だが、自分が好意を寄せる相手のことを嘲笑するのはやはり許せないものだ。
……俺がいつも怒る前にアイリスが怒って行動してくれるから、拍子抜けするんだよな。
むしろ、怒っているアイリスを宥める方が多い。ブレアやエリオス、ミレットは前に比べればアイリスは大人しくなったと言っていたがそれは恐らく、自分の前では派手な行動を起こさないようにとある程度、抑制しているのかもしれない。
だが今は、アイリスは隣にいない。そして以前、自分達を嘲笑していた青年が試合の相手だ。
準備を終えたクロイドがじっと試合相手であるフランクを小さく睨むように見ていると、向こうも準備を終えたのか、視線をクロイドの方へと何気なく移してくる。
そして、フランクは瞳を大きく見開いて、どうしてお前がここにいるんだと言わんばかりの表情をしていた。
事前に配布されている試合表には試合相手の名前も記載されているが、この男は自分の名前を元から知らなかったのか、それとも試合表を見ていなかったかのどちらかだろう。
……名前も知らない相手を侮蔑してくるなんて、良い性格しているな。
このフランクという男と鉢合わせした時はまだ、教団に入団してから二週間くらいしか経っていなかったはずだ。
それでも、「呪われた男」と言ういつのまにか付けられていた名称だけが独り歩きしているように感じていた。
そのせいで、不要な輩に絡まれたのは大きな理由の一つだろうが、名前を知らない相手をただ嘲るためだけに近づいて来るとは、本当に性格が悪い以外に言いようがない。
鼻で笑ってやりたかったが、クロイドは表情をわざとらしく色の無いものへと変えた。
アイリスと出会う前まで、ずっと無表情だったのは笑うことが出来なかったという理由もあるが、それと同時に己に対する戒めでもあり、降りかかる余計な言葉を跳ね返すための盾でもあった。
今はその必要がなくなったため、表情豊かに思われがちだが、嫌いな相手やアイリスの敵だと見なした者に対してはいつも無表情で対応している。
クロイドの無表情を見たフランクは、嫌なものを見たと言わんばかりに顔を引き攣らせていた。
以前、あちらの戯言に対してアイリスが挑発し、そして剣術による試合をしたのだが、フランクの相方をアイリスは遠慮する事無く叩きのめしていた。そのことをフランクは思い出したのか、恨みがましい瞳でこちらを睨んでくる。
どうやら、試合に私怨を抱いたのは向こうが先だったらしい。
……さて、どうしようかな。
もちろん、簡単にやられる気など更々ない。アイリスが見ている目の前で、無様な姿を晒したくはないし、お互いに勝ち進めていく約束もしている。
アイリスとの賭けに勝つためにも、まずは無事に初戦を突破しなければならない。
……お願い事は何にしようか。
恥ずかしそうに照れているアイリスの表情が脳裏に浮かんできたため、クロイドはすぐに消し去るように頭を横に振った。
お楽しみは後回しだ。今は、目の前に集中するべきである。
そう思っていると、とうとう第六試合の開始を告げる審判の声がその場に響き渡った。
「――第六試合。……始め!」
高らかな声が発せられたと同時に、クロイドは魔法を放つべく「黒き魔手」を自分が守るべき木製の人形に向けて素早くかざした。




