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魔犬

 

 はっと気づいた瞬間には、いつの間にか逃げ場の無い壁際へと背中が触れそうになっていた。

 どうやら後ずさりしつつ攻撃を避けていたら追い込まれていたらしい。


「ちっ……」


「ほう」


 まるで面白い事を思いついた子どものような表情でメフィストは不気味に笑い、宙に浮かぶ三つの氷の結晶をアイリスに向けてナイフ投げをするように飛ばしてくる。


 それらはアイリスの急所を狙ったものではない。

 三つともアイリスの穿いているスカートの裾に向けて投げられた物だった。


「っ……」


「実に良い光景だね」


 上半身だけしか動けなくなってしまったアイリスを見て、満足そうに笑う悪魔を強く睨むが、どうせ自分の威嚇など意味が無い事は分かっている。


 ……本当に最低な野郎ね……!


 だが、アイリスも静かに笑う。

 たかが、スカートの裾だ。動けないならば、動けるようにすればいいだけである。


「これで私をいたぶっているつもりなのかしら?」


「何?」


 訝しげに首を傾げるメフィストに対し、アイリスは不敵な笑みを浮かべつつ、自分の膝辺りに向けて剣先を横に薙いだ。

 瞬間、剣先が氷の結晶ごと、スカートの裾を裁断するように切り裂いていく。氷の結晶は刺すものがなくなると、その場に音を立てながら砕け散っていた。


「おかげ様でこの通り動きやすくなったわ」


 ひらりとアイリスが穿いていたスカートだった布がその場に落ちる。下には短い運動着を穿いているので、心配する事は何もない。

 ただ少し、素足が見えるだけだ。


「君は……淑女という自覚は無いのかね?」


 驚きつつも少し呆れたようにメフィストは呟く。アイリスの行動は彼にとっては予想外だったらしい。


「淑女? 私にそんな言葉が似合うとでも?」


 再び動けるようになったアイリスは目上に居る悪魔を見下すように睨む。


「私は剣士よ。魔法使いでもそこらに居る貴族のお嬢様でもないわ」


 魔力の無い自分が進むための術として、手に取ったのは剣だ。その時から、自分は一人の剣士だと思っている。


「……やはり、いたぶり甲斐のあるお嬢さんだ」


 メフィストは両手で指を一回ずつ鳴らす。

 悪魔の頭上に集まる水分が大きな形を成していき、ついには巨大な塊を作り上げた。


「……なに、これ……」


 半端な大きさではない。

 教会の天井を埋め尽くす程のそれはもはや氷の巨壁のようだ。


 この攻撃によって、かなりの衝撃を受ける事は簡単に予想がつく。いや、衝撃どころではないだろう。下手したら、死さえ待っているかもしれない。


 ……こんなのでたらめだわ。


 アイリスはただ、それを呆然とした瞳で見つめる事しか出来なかった。


「さぁ、剣士で勇敢なお嬢さん。どう受け止めてくれるかな?」


 帽子の下で黒い笑みが見えた。悪魔が右手をすっと下ろす。


 直下するようにアイリスに向かってくるが、逃げ場が全く無いためどこに逃げても一緒だと瞬間的に判断した。


 ……逃げ切れないっ……!


 アイリスが為す術もなく、立ち尽くしたその時だ。



「――冷酷な業火クルエルド・ブレンネン


 何所からか鋭い声が聞こえたと同時にアイリスの視界を通り過ぎたのは炎の玉だった。巨大な炎の玉は、火炎放射器のように勢いをつけたまま、空間を埋め尽くしていた巨大な氷へと直撃する。


 炎の玉による熱はアイリスが立っている場所にまで届き、汗をかくような熱い風が暴風となって吹き通っていった。


 熱風が過ぎ去り、アイリスがゆっくりと目を開けるとそれまで、教会の空間を埋め尽くしていたはずの氷は一欠けらとして残っておらず、遮るものがないため、再び星の明かりがその場を微かに照らしていた。 


 突如として、どこからか放たれた炎の玉は一瞬にして氷を蒸発させて気体へと変えたらしい。


「ほう! 業火の炎か!」


 己の魔法を打ち消されたにも関わらず、メフィストは愉快そうに笑っている。

 

 突然の出来事に呆然と突っ立っていたアイリスは、はっと我に返ると勢いよく振り返り、教会の入口の方を見た。


「……待たせて悪い」


 そこに立っていたのは紛れもないクロイドだった。

 顔には汗が一筋流れていたが、恐らく悪魔と対峙しているこの現状を見て、全てを察したのだろう。急ぐようにアイリスのもとへと走ってくる。


 クロイドの姿を見たアイリスはつい、安堵の溜息を吐きだしそうになっていたがそれを押し留めて、真面目な表情でクロイドに訊ねる。


「……ローラはちゃんと本部へと届けたでしょうね?」


「ああ、大丈夫だ。医務室の医師に任せて来た。今は眠りの魔法で眠らされている」


「そう、なら良いけれど」


 するとクロイドの表情がふっと強張った。彼の視線はアイリスの身体を上から下へと流すように見つめて来る。


「その傷……」


「大した傷じゃないわ。ただ、あそこに居る変態下衆野郎にちょっとやられただけよ」


 アイリスが顎の先をくいっと前方へ向ける。

 クロイドは宙に浮かんでいる紳士風の男に視線を移した。


「あれは……」


「悪魔メフォストフィレス。通称メフィスト。聞いた事くらいあるでしょう?」


「物語の中だけの悪魔かと思っていた」


「その物語の題材になった悪魔が目の前にいる彼よ。あまり知られていないけれどね。……あいつは『悪魔の紅い瞳』に封印されていたの。ローラを操って利用していたのよ」


 傷を負ったアイリスを守るようにクロイドが前へと立つ。

 メフィストは最初、クロイドを見て訝しげな表情をしたがすぐに目を見開いて笑顔を見せた。



「おやおや……。中々の魔力を持っている者が来たと思ったら――君は魔犬(まけん)だな?」


 メフィストの口から一つ、零された言葉にアイリスは心臓が止まったように固まる。


「え……?」


 悪魔が言った言葉が理解出来なかった。

 ただ自分の知らない事をさらりと告げられたことだけは分かる。


「え、あ……。何を言っているの……? クロイドが……。魔犬ですって……?」


 アイリスは一つ一つ、言葉を確認するようにゆっくりと繋げていく。

 しかし、こちらに背中を見せているクロイドが否定の言葉を告げるためにアイリスの方へと振り返ることはない。


 確かにクロイドが犬に変化出来る事は知っている。

 だが、その姿はただの犬だ。


 本物の魔犬は大人の人間並みの大きさで、毛並みは闇よりも濃い黒色な上に月の光を浴びると艶やかに輝くらしい。 

 そして瞳は金色だと伝えられている。アイリスが会った魔犬もそのままの姿だった。


 でも、クロイドは違う。

 彼が犬化した時の大きさは普通の中型犬で毛並みも瞳も変わりない普通の黒色だ。


「この気配も懐かしいねぇ……。まだ呪われて数年ってところかな? 完成までもう少しだね」


「メフィスト! からかわないで! 彼は……」


 クロイドを庇うようにアイリスは一歩前へと出て、そして彼の顔を仰ぎ見てから、ぴたりと動きを止めた。


 暗闇でも分かる程の表情の無い色。

 いつもの無表情などではない。

 そこには絶望したように虚空を見つめる瞳があった。

  

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