戦闘
「……私には剣があるわ」
アイリスは何かをぐっと喉の奥へと飲み込んで、剣の柄を握る手に力を込める。
「ほう。……では強大な魔力が手に入る機会があったとしても、君はそれを逃すというのかい?」
甘美な囁きのつもりなのだろう。だが、自分のことを理解しているアイリスにとっては、ただの戯言にしか聞こえなかった。
悪魔から吐き出される言葉の先を予め読んでいたアイリスは剣先をメフィストに向けてから睨み返した。
「私と契約は出来ないわよ。この『悪魔の赤い瞳』は魔力が必要な魔具だから、私には使えないわ。魔力がこれぽっちも無いもの」
「それじゃあ、魔力が君の中に存在していたら? もしくは魔力を使わなくていい方法で魔力が手に入るとしたら君はそれを望むかい?」
魔力が手に入る。
それはかつての自分が喉から手が出る程に強く望んでいた事だ。魔法を使う事が出来ればと何度もそう願っては現実を思い知らされてきた。
だが、今の自分は昔とは違う。
別の方法で生きる事を選んだ。
「――いらないわ」
拒絶するように、その一言をはっきりと答える。
一瞬だけ、メフィストが顔を顰めた。どうやら彼自身が想像していた答えとは別のものだったため裏切られた気分なのだろう。
「そうか……。なんとも強情なお嬢さんだな」
「ええ。私、こう見えて頑固で融通が利かないの。教団の中では結構有名なのよ?」
例え無駄だと言われてもアイリスは諦めることなく、メフィストに向けて再び攻撃を続行した。
それでも長剣を薙ぐ度に、アイリスが描く一閃はメフィストによって綺麗に躱され続けた。
疾風の靴は鳥のように空を飛べる靴ではない。
何か足場となる壁や地面が無ければ跳躍する事が出来ないものだ。
攻撃を続けながらもアイリスは着地場所をしっかりと見据えながら悪魔に向かって言葉を吐いた。
「それと私……。あなたみたいな人、いや悪魔が嫌いなのよ」
「……ふふん。良いねぇ、その真っ直ぐな心。迷いの無い純粋な瞳。可憐な上に勇敢で、とても美しい魂を持つ人間に会うとやはり心が躍るものだ」
そう言ってメフィストは空中に浮いたまま、口元を緩める。目を開けたままでは、脳裏に刻まれて、その笑みを再び思い出してしまいそうだ。
なんとも不気味な笑い方をするその姿に、やはり彼は人の心を弄ぶ悪魔なのだと実感する。
「君のような人間を見るとね、その者の全てを壊したくなるのだよ。命が切れそうになる寸前に命乞いをするあの姿! あぁ、なんて気持ちが良いのだろう!」
メフィストは両手を広げ、いかに自分の言っていることが素晴らしいものなのかを語りながら、うっとりとした瞳で宙を見つめている。
彼の記憶の中から何かが思い出されているようだが、恐らくアイリスだけに限らず、人間にとってはおぞましいことばかりなのだろう。
「……最低ね」
怒りを抑え、ただ静かに答える。相手の挑発に乗ってはいけない。
これは自分の心の平静を保てなくするための罠だ。
アイリスは剣を握る拳に力を入れ直した。手に握る剣だけが悪魔の誘う声から現実に戻してくれる。
「……そうやって粋がっている人間を弄ぶのも好きだよ」
メフィストは右手をすっと水平に上げた。
「っ⁉」
アイリスの周りにあった瓦礫の破片や小石がふわりと宙に浮かび、円を描きながらその場を回り始める。
まさか、悪魔が無詠唱による魔法を扱えるとは知らなかったアイリスは目を見開き、一歩後ろへと下がった。
「そう、嬲り殺しって言うのかな? 脅える表情も実に良い」
口の端を上げて笑うこの悪魔は一体どれだけの人間と契約をして、彼らの魂を奪ってきたのだろう。
何かの記述にはこの「メフォストフィレス」は悪魔と言ってもかなりの下っ端なのだと書かれていた。
ただ、とても知的で狡猾なのだと。
「……本当に最悪で最低の悪魔ってことね」
「今だけだよ、その様に言えるのは。……まぁ、良い退屈しのぎにはなるかな。ああ、殺しはしないよ? 簡単に殺してしまったら面白くないからね。もっと、ゆっくりとじっくりと……楽しまないとね」
にやりと悪魔らしい表情でメフィストが笑ったその瞬間。彼は空に向けて上げていた手をさっと下ろした。
その仕草が合図となり、空中に漂うように浮かんでいた石の破片は一斉にアイリスに向かって襲い掛かる。
「くっ……」
アイリスは剣を持ったまま地を蹴って宙へと逃げた。
くるりと身体を前転するように一回転してから、数メートル先の長椅子の上に着地する。
そしてすぐに後ろを振り返ると、自分が先程まで居た場所には、一斉に襲ってきた石によって作られた深い傷が刻まれていた。
どうやら威力も大きいらしい。
「今の攻撃を全て避けるなんて思っていたよりも、その靴を上手く活用しているみたいだねぇ」
筒状の帽子の下で小さく笑いながらメフィストはぱちんと一度だけ指を鳴らす。
それは次の攻撃の合図だったらしく、乱雑に放置されていたはずの長椅子がアイリスの頭上から勢いよく落下してきていた。
「っ!」
片足で軽く跳びつつ、攻撃を避けようと着地する場所を点々とするが、まるでアイリスの動きを全て見切っているのか、逃れる先々の頭上からも長椅子が遠慮なく落下してくる。
「ほらほら……。早く避けないと当たってしまうよ」
メフィストはローラの魔力を少し貰っているだけにも関わらず、無詠唱でここまで好き勝手に物を操れるらしい。
さすがは悪魔だと賞賛したいがそれは悪い意味でだ。
「とんだ下衆野郎ね……っ!」
ひょいとアイリスは空中へと跳んだがそこへ片手程の大きさの石が自分の頭に目掛けて飛んでくる。
「っく……」
突然の攻撃だったが、何とか反応出来たアイリスは剣で薙ぎ払うように石を叩き落とした。
「中々、反応が良いね」
無事に床へと着地してからアイリスは鋭い視線をメフィストに送った。
「この剣を飾りだと思っていたの? ……私は剣士だもの。そこらの魔法使いと比べて体力だけはあるんだから」
「ふふっ……そうかい。では君の体力が無くなるまで……遊んであげよう」
メフィストは愉快そうな表情で再び指を鳴らす。
「次は……これでどうかな?」
空中に浮くメフィストの周りに何かの物体が集まっていき、次第に形成し始めていく。
それは槍の先のように尖った物だった。
しかも一つや二つではない。多々なる物体がメフィストに従うように彼の周りをぐるぐると回っている。
「それは……」
「空気中の水分を凝結して作ったのだよ。何とも美しい武器とは思わんかね?」
暗闇の中に浮かぶ結晶は空に光る星の明かりに反射して、小さな煌きを見せた。
同意はしたくはないが、客観的に見ても綺麗なものだと思う。ただし、戦闘中に思うような事ではないため、アイリスはメフィストには何も答えずにいた。
白手袋をはめた人差し指をくいっとメフィストが動かすと、浮かんでいた五つの尖った結晶がアイリス目掛けて勢いよく飛んで来たのである。
「なっ……」
物を操れるだけではない。物質自体も別の物へと変える事が出来るのだ。
しかも先程の石や長椅子とは変わり、比べ物にならないくらいの速度が出ている。
アイリスは剣一本で、自分に襲い掛かる結晶を叩き壊しながら必死に逃げ続ける。
今の自分にはそれしか出来ないのだ。
封印が完全に解かれていない霊体であるメフィストに物理的攻撃は効かない。
アイリスが宙から地面へと着地した瞬間、それを狙っていたのかいくつかの結晶が容赦なく襲ってくる。
「痛っ……!」
腕に、足に、横腹に。
次々と襲ってくる鋭い結晶を前に、アイリスはただそれらを叩き落とすことしか出来なかった。
皮膚が切り裂かれ、鮮やかな色が少しずつ服へと滲んでも気にしなかった。
服が裂けようが、髪が切られようが、目の前の悪魔を真っすぐと見据えて攻撃に耐えるしかなかったのだ。




