悩み事
トゥリパン村での任務を終えて、教団に帰ってきてから一週間程が経った。
それでも日常は何事もなく、いつも通りに過ぎていく。大きく変わったことなど、何もない。
ただ、アイリスの心の中が乱れているだけで。
ラザリーの件は終わった。ウィリアムズのことはブレアから、まだ正確な報告は受けていない。彼が今後どうなるのか、自分が関わることはもちろん無いし、出来ないようになっている。
何も変わりはないのだ。自分が関わったことでさえ、遠いものとして眺めることしか出来ない。何も、出来ないのだから。
そうだと分かっているのに、乱れてしまう。
「……」
教団の団員達が起床するよりも早い時間からアイリスは訓練場で唯一人、木製の剣で素振りを続けていた。
一閃を薙ぐ度に、対峙する敵を思い浮かべる。どういう状況で、どのように剣を振ればいいのかを考えながら、一閃を放つ。
風を斬る音だけがその場に響く。その音さえも乱れているように感じたアイリスは悔しげに唇を噛んだ。
何度、剣を薙いでも、想像の敵を瞬時に倒すことが出来ない。今の自分がまだ納得できる強さを持っているわけではないことは理解している。
だからこそ、こうやって鍛錬しているというのに、自分の動きに迷いがあるように思えて仕方がなかった。
……強く、もっと……。
自分の手に誰かの命がかかっているならば、尚更強くならなければならない。分かっているのに、どうすれば今よりももっと強くなれるのか分からないまま、もがき続けていた。
あの時、自分がもっと強ければ。敵を一撃で倒す程の力があれば。
そのように感じることが二度とないように、今はひたすら剣を薙ぐしかなかった。
「――珍しく、剣筋に迷いがありますね」
訓練場に鈴が鳴ったような細い声が響き、アイリスは後ろを振り返った。
入口辺りに立っているのは肩よりも上に短く黒い髪が揃っている少女だ。彼女の手には自分と同じように木製の剣が握られていたため、鍛錬をしに来たことが窺える。
「おはようございます、アイリスさん」
「……おはよう」
抑揚のない声で少女は朝の挨拶を述べる。知っている声と顔だが、名前が思い出せず、アイリスは自分の記憶の中から当てはまる人物を本のページを捲るように探していく。
「……確か、魔物討伐課に所属していた……」
「覚えていましたか。……お会いするのは一年くらい前に手合わせした以来ですからね」
黒髪に黒目の少女は無表情のままで頷く。自分の記憶が確かならば、彼女の名前はイトと言ったはずだ。
しかし、記憶と違っているのはイトの容姿だった。以前の彼女は背中よりも長い黒髪を馬の尻尾のように一つに束ねていたはずだし、何より今の表情が前よりも柔らかい気がした。
「……一年も会わない間に印象が変わったのかしら」
自分が魔物討伐課に所属していた時、イトは孤独を好む性格をしており、特定のチームには属していなかったように記憶している。
だが、剣の腕前は魔物討伐課でも上位を占めるもので、何度か彼女と剣による手合わせをしたことがあるが、決着は着かないままだった。
「色々ありまして。……アイリスさんも、以前と比べて表情が丸くなったように見えます」
「……そうね」
歳は同い年のはずだが、イトは遥か東の国の血が入っているらしく、その国の人間は歳よりも若く見えることがあるのだという。
顔は幼いし、背もアイリスより低いが、イトが放つ剣の一撃は目に留まらないくらいに速かったはずだ。
「……何か悩み事ですか」
「え?」
イトが変ったのは雰囲気だけではないらしい。一年程前なら、積極的に他人に話かける彼女をあまり見たことはなかった。
「剣筋、以前よりも鈍っています。あなたの一閃はもっと、真っすぐで触れられない棘のように鋭いものと記憶していますが」
彼女にしてはよく喋っている方だろう。いつも無口で無表情だった頃しか、自分は知らないので本当にイトという少女と同一人物なのかと首を傾げそうになる。
だが、イトが纏う雰囲気にクロイドと似ているものを感じたアイリスは何となく気まずさを抱き、そっと視線を背ける。
「……よく、見ているのね」
「そういう仕事をしていますからね」
イトは鍛錬用の木製の剣を腰のベルトに差しつつ、アイリスの方へと近付いてくる。誰もいない訓練場に二人の声だけが響く。
「……イトは自分が弱いと感じたことはあるかしら」
自分でも何故、こんな質問をしているのか分からない。だが、自分と同じように魔物を倒すことに固執していた彼女にずっと聞いてみたかった質問だ。
以前のイトは誰かと慣れ合うよりも、ただひたすらに魔物を狩ることに全てを懸けていたように感じていたからだ。
「ありますよ」
アイリスの近くに立ちつつ、イトは屈伸をしたり、腕を伸ばしたりしながら身体をほぐし始める。
「毎日、思っています。どうすれば今よりも強くなれるのか、弱い自分を切り捨てられるのか――」
「それじゃあ、何のために強くなりたいと思っているのか聞いても良い?」
「……」
アイリスの質問が意外だと思ったのか、イトは一瞬だけ身体の動きを止めた。
「……以前の私はどうしても倒したい相手がいました。そのためにひたすら強くなりたいと……周りを見ないまま突き進んでいました」
何となく、イトの言葉に対して自分自身にも思い当る感情が重なり、アイリスはイトをじっと見つめた。
「でも今は、自分が背中を預けている相棒のために強くなりたいんです」
「……チーム、組んだのね」
「まぁ、色々とありまして」
一匹狼を貫いていることで有名だったイトだが、どうやら自分の知らないうちに誰かとチームを組んだらしい。
答えた一瞬だけ、気恥ずかしく思ったのかイトはアイリスから視線を逸らしていた。
「……私の相棒はとても真っすぐな人なんです。私が無茶をすれば叱って、嘆いてくれる心を持っていて……。――太陽みたいに熱くて眩しい人です」
表情は無のままだというのに、イトの声色は今まで一番穏やかなものに聞こえた。余程、相棒のことを信頼し、大切に想っているらしい。
しかし、彼女にしては慣れない話をしたらしく、視線を逸らしたまま、イトは何事もないように先程の続きで身体をほぐしていた。
「私の目標は果たされました。ですが、それでも強くなりたいのはやはり、相棒を安心させたいためでもあります」
「……心配性な相棒なの?」
イトの相棒がどこかクロイドと同じ匂いがすると感じたアイリスは小さく苦笑する。
「えぇ。……私は彼の泣きそうな表情は見たくないですから。だから、強くなりたいんです。自分が強くなればいらぬ心配をさせなくて済みますからね」
こちらを振り返ったイトの表情が一瞬だけ、笑ったように見えたアイリスは目を瞬かせる。だが、次の瞬間にはいつもの無表情へと彼女は戻っていた。
「さて、アイリスさん。せっかくの機会ですから、手合わせしませんか」
身体をほぐし終えたイトがアイリスと対峙するように3メートル程離れた場所に真っすぐと立つ。
「今度、武闘大会があるので、それに向けた本気の手合わせをしたいんです」
「あぁ、なるほど……」
あと3日後に教団内で武闘大会が開かれるのだ。参加者は自由で、武術部門と魔法部門と二部門に分かれて行われる。
優勝者には賞金が贈られるし、優勝者が所属する課の予算が3割ほど上げられるため、どの課も気合を入れて腕に自信がある者を武闘大会に送り込むのだ。
その中でも特出しているのはやはり、魔物討伐課だった。所属している多くの団員が戦闘要員であるため、武闘大会への参加人数もかなり多い。
ちなみに魔具調査課では、アイリスとロサリアが武術部門で、クロイドとユアン、レイク、ナシルが魔法部門で参加する予定だ。セルディとミカは参加せずに応援に専念するらしい。
その一方で、課の予算が上がる優勝賞品が関わっていることから、ブレアが覆面を付けて武術部門で参加したいと言い出したため、セルディとミカが全力で止めに入っていると聞いている。
団員は誰しも参加は自由だが、課長以上の役職を持つ者は参加出来ない決まりとなっているのだ。
セルディ達が参加しない理由としては、こっそりと参加しようとしているブレアの見張りもしなければならないからかもしれない。
以前と比べれば、それほど物を破壊しなくなったアイリスだが、それでも自分が任務中に破壊してしまった物が課の予算から出された修理費によって補修されていることは知っている。
そのため、何としてでも武闘大会で優勝して、獲得した賞金を魔具調査課に贈りたいと思っているアイリスは実はひっそりと気合が入っていた。
「いいわ。私も実戦形式でやりたいと思っていたの」
色々と悩むよりも、自分は身体を動かす方が性に合っている。
どうすれば、強くなれるのか。どうすれば、後ろを振り返らずに前に進み続けられるのか。
その答えを導くのは自分自身だ。この身、この剣が自分の行く先を決めるのだ。




