残されたもの
「――あれ? 昨日のおねえちゃん?」
その時、殺風景となったこの場所に似合わない程に柔らかな声が響いた。振り返るとそこには昨日、別れの挨拶をしたレイチェルがいたのだ。
彼女の細い腕には分厚い本が抱きしめられており、その本はラザリーが贈ったものだとすぐに気付く。
「……おはよう、レイチェル」
「おはようございますっ」
身体を半分に曲げるように頭を下げて、レイチェルはこちらに近づいて来る。
「あんまり、近づいたら危ないよ? おかあさんも、言っていたよ」
「うん、そうね……」
アイリスはすっと視線をレイチェルの本へと向ける。
「……本が好きなの?」
穏やかな笑みを浮かべてレイチェルに訊ねると彼女は難しいことを考えるような顔をした。
「うーん、まだ、むずしい言葉は読めないよ? でも、お話を聞くの、すごく好き!」
「そう……。どんなお話が好きなの?」
子どもに接する際と同じようにアイリスは中腰になりつつ、レイチェルの視線と自分のものを合わせる。
「えっとね……。女の子がね、冒険するの」
「冒険?」
「色んな場所に冒険するの。でも、その女の子は皆に嫌われているんだって。かわいそうだよね」
しょんぼりとした表情でレイチェルは言葉を続ける。
「でも、そのお話の終わりを知らないの」
「あら、どうして?」
「うーん……。何でだろう? 誰かに聞いたのかな? 最後が……思い出せないの」
「……」
もしかすると、ラザリーに聞かされた話なのだろうかとアイリスはクロイド達に軽く目配せする。
すると、エリックがアイリスと同じようにレイチェルの前へと腰を下ろした。
「その本、私にも見せてくれる?」
いつものたどたどしい言葉ではなく、はっきりと優しい言葉でレイチェルに訊ねている。
「うん、いいよ!」
レイチェルから本を受け取ったエリックはその本の目次のページを捲っていた。
そして、何かを見つけたのか、その手を止める。
「エリック?」
アイリスが隣で何かを凝視しているエリックに声をかけると、彼女は唇を噛み締めていた。エリックは何かに耐えるように息を飲み込んでから、アイリスへとその本を渡してくる。
細い指で示された項目にアイリスも目を見開いた。自分も知っている話だったからだ。
「……レイチェルちゃん。お話の続き、この本の中に載っているよ」
エリックが無理矢理に笑って、レイチェルの頭をそっと撫でる。
「本当っ?」
「うん」
「わぁ! 聞きたい! ねぇねぇ、読んで?」
レイチェルはアイリスの服の袖を軽く引っ張って来る。
「ねぇ、お願いっ」
早く話の続きが知りたいのか、レイチェルはアイリスを急かして来た。
アイリスもレイチェルが言っている話を知っていた。だが、おとぎ話として子どもに聞かせるものから少し外れた有名どころではない話だった。
「……それじゃあ、物語の最後はどうなったのかだけ読んであげるわね」
「わぁいっ! ありがとう、おねえちゃん!」
アイリスは教会址から少し離れた場所に放置されるように置いてある巨石に腰掛け、レイチェルを自分の隣へと座らせる。
「お話を聞く準備はいいかしら?」
「うん!」
アイリスは本を開き、目的の項目を開いていく。題名は『泣き虫魔女の冒険』というものだ。
「……泣き虫魔女は悪い人達に追われて、とうとう見知らぬ森の奥へと辿り着きます」
話の内容を知っているエリックはレイチェルから顔を逸らしていた。それでもアイリスは文章を読み続ける。
「泣き虫魔女は心細くて、悲しくて、ずっと一人で泣いています。誰も声を聞いてくれる人はいません」
詰まりそうになる言葉をゆっくりと紡ぎつつ、アイリスはレイチェルのために物語を読んでいく。
「悪い人達によって傷付いた泣き虫魔女は、怪我が痛くて、痛くてたまりません。でも、魔法を使う力がなくなってしまい、彼女は一人で泣いています」
話の続きが気になるのか、レイチェルはそわそわとした様子で聞いている。
「そんな時です。泣いている彼女の前に白い羽を持った女の子が現れたのです」
「白い羽? 天使さん?」
首を傾げながらレイチェルは訊ねてくるため、アイリスは苦笑しながら頷いた。
「白い羽の女の子は優しく笑って、泣き虫魔女に手を伸ばします。その手を掴むと、あっという間に痛いところがなくなり、身体が軽くなっていくのです」
視界の端でエリックが口を押えている姿が見えた。クロイドも、この物語の主人公がどうなったのか気付いているらしく、目を閉じている。
「すると、泣き虫魔女の背中にはいつの間にか可愛らしい白い羽が生えていました。白い羽の女の子とお揃いです。女の子は泣き虫魔女に向かって、こう言いました。『もう、一人じゃないよ。大丈夫、私があなたのお友達になってあげるわ』」
息を一つ吸い込み、アイリスは続きを話そうとする。だが、言葉がとうとう詰まってしまい、声が出なかった。
「……おねえちゃん?」
続きがすぐに話されないことを不思議に思ったのか、レイチェルは顏を上げる。
「泣いているの?」
アイリスの瞳は、いつの間にか涙で溢れていた。視界がぼやけて文字が読めなくなってしまったのだ。
「……ごめんね。ちょっとだけ、待って……」
息を深く吸い込み、アイリスは指先で涙を素早く拭う。
「……女の子の言葉に、泣き虫魔女は嬉しそうに笑います。ずっと一人だった彼女に初めて出来たお友達はとても優しくて可愛い女の子です。泣き虫魔女は女の子の手を握ったまま、ゆっくりと空を飛びます。箒で空を飛ぶよりも、楽しい空の旅はどこまでも続いていきます」
最後の一行を読む前に、アイリスは目を閉じて、そして開いた。
「泣き虫魔女の目にもう涙はありません。初めて幸せだと思ったのです。泣き虫魔女だった女の子は嬉しそうに笑いながら、白い羽の女の子と一緒に空の中へと消えていきました……」
物語を全て話し終えてから、アイリスは本を閉じて、レイチェルへと渡す。
「魔女の女の子と白い羽の女の子はお空でずっと遊んでいるんだね!」
子どもらしい感想にアイリスは薄く笑って頷く。
そう、今は分からないままでいい。この物語に出てくる魔女の女の子は死んでから、初めて幸福を得たという意味に気付かないまま、優しい物語としてレイチェルの中に残ればいいのだ。
……ラザリーはどういう気持ちでこの物語を話していたのかしら。
もしかすると、彼女自身を魔女の女の子に重ねていたのだろうか。……いや、それはさすがに深読みしすぎだろうとアイリスは首を横に軽く振る。
今となっては、もう何も分からないことだ。ただ、重たいものだけが心に沈んでいく。
「……レイチェル。その本は大事にしてね」
「うん! ……あれ、でも……誰がこの本を持ってきたんだっけ……?」
大きく首を捻るレイチェルを横目で見つつ、アイリスは自ら拳を作り、指に爪を食い込ませる。
その辺りの記憶も曖昧ということは、ウィリアムズによって忘却魔法をかけ直されたのだろう。
「……きっと、優しい人があなたに読んで欲しくて、持ってきてくれたのよ」
アイリスは巨石から立ち上がり、レイチェルの頭を優しく撫でる。
「だから、大切に読んでね」
「うん!」
笑顔で言葉を返してくるレイチェルにアイリスは優しい笑みを浮かべた。
「――レイチェル? レイチェルー」
レイチェルの名前を呼ぶ声が響き、巨石から小さな身体を浮かせるように地面に降り立つ。
「あっ、おかあさんだ!」
丘の下からレイチェルの母親らしき女性が周りをきょろきょろと見渡しながら、名前を呼んでいる。
「またね、おねえちゃん!」
「……さようなら、レイチェル」
レイチェルが母親に向かって、駆けていく。その小さな手の中にはしっかりと分厚い本が抱きしめられていた。
「……」
どちらが幸福なのだろうか。
悲しい事を忘れたまま生きることと、覚えていながら苦しくもがき、生きることは。
「……っ」
瞬間、立っていたはずのエリックがその場に座り込む。
「エリック?」
「……めん、なさい」
言葉を零したと同時に彼女の瞳からは大粒の涙が落ちていく。恐らく、レイチェルがいたため我慢していた涙なのだろう。
「ごめんなさい、私……。私が、もっと……治癒魔法に詳しかったら……」
自分を責めるような言葉を吐きつつ、エリックは零れゆく涙を手の甲で拭い続ける。
「っ……。違うわ、エリック」
アイリスは顔を歪ませて、エリックの隣へと膝をついた。エリックの身体は小さく震えており、アイリスは彼女の背中を支えるように両手を置く。
「そんなこと、思っていないわ」
「でもっ……。私、私が……ラザリーさんに……もっと、ちゃんとした治療を出来ていたら……」
それ以上は言葉にならないまま、エリックは嗚咽しながら泣き続けた。クロイドは何かを惜しむような表情で唇を噛み、目を閉じている。
ラザリーの死を誰かのせいに出来たらどれ程、楽だろうか。
自分でもいい。誰かがお前のせいでラザリーは死んだのだと言ってくれた方が、まだ受け止めきれるのだ。
……誰のせいでもない。だから、渦巻く感情を整理出来ない。
震えたままのエリックの背中を手で優しくさすりつつ、アイリスは視線を教会址へと向ける。
ラザリーは死んだ。確かに死んだのだ。
分かっているのに、彼女の姿を探してしまう。
「……」
肉体を失い、残された魂はどこへ行ったのだろう。探しても、探しても霊体となったラザリーはどこにもいない。
未練も心残りも一切ないまま、ラザリーはもう自分達には見えない世界へと行ってしまったのだろうか。
アイリスは身体を少しふらつかせながら、ゆっくりと立ち上がる。一歩、また一歩前へと進んでいく。
「アイリス……」
クロイドに呼び止められる声さえも振り払って、教会址へと近付く。
「――ラザリー」
呼びかけても返事がないのは分かっている。
ラザリーは彼女がそれまでにいた世界に思い残すことがないまま、消えてしまった。
だから、霊体としての姿を現してはくれないのだ。降霊魔法で呼び出しても彼女のことだ、きっと応えてはくれない。
ずっと眠りについたままなのだろう。自分はラザリーがそういう人だと知っている。
現世に未練など残さないまま、潔く身を引き、悠々と笑みを浮かべながら眠るつもりだと分かっている。
「ラザリー」
もう一度、名前を呼ぶ。届いていないと分かっていても、アイリスは言葉を続けた。
「……ラザリー・アゲイル。あなたの気高さと、誇り高き心を私は……ずっと覚えているから」
見えなくても聞こえなくても、もう二度と会うことは出来なくても。自分の中には、彼女が示した強い意志は確かに残っている。
美しい歌声も、微笑も、姿も何もかもを鮮明に覚えている。
「忘れない。忘れたりなんか、しない。ずっと、あなたを覚えたまま、生きていく」
瞳を逸らさないまま、アイリスは教会址を真っ直ぐと見続ける。心と魂にラザリーの生き様を刻むために。
「……さようなら、薔薇の笑み」
本当は優しい魔女だったのだ。だが、彼女は自分にも他人にも素直になれないまま、不器用に生き続けるしかなかった。
まるで薔薇のようだ。棘を出したまま、自分に近づくなと言っておきながら、それでも真っすぐに咲き続けたいと願う姿が赤い花と重なっていく。
……あなたの眠りが安らかに続くことを祈っているわ。
アイリスは追悼の意を込めて、両手の指を重ねるように組んだ。
言葉を心の中で呟いた瞬間、ぶわりと強い風が吹いた。アイリスの金色の髪を攫う程の強い風が一瞬で吹き通っていったのだ。
どこか不自然にも思えた風に、アイリスは身を寄せるように目を閉じる。
涼しい風は昨日の雨のよって濡れた土から、湿った空気を剥ぎ取るように奪っていった。その心地よさが今はただ悲しくもあり、優しくも感じられた。
瞳を開けて、アイリスはクロイド達の方へと振り返る。
「……帰りましょう」
自分達がこれ以上ここにいても、出来ることは何もない。ただ、魔具回収の任務は達成されたという事実だけが手元に残っている。
クロイドは何か言いたげな表情をしていたが、アイリスの言葉に頷き返してくれた。
エリックはこれ以上泣き続けても意味がないと思っているのか、必死に涙を拭いながら、力強く頷いて立ち上がった。
アイリスはもう一度だけ、教会址を一瞥する。
「……」
もう、言葉は出なかった。込み上げてくるものを押し込めて、深く息を吐き、アイリスは教会址から背を向ける。
丘の下へと続く道に向けて進められる足が、再び止まることはなかった。自分の背中を押すようにまた強い風が吹きつける。
振り返るな、進み続けろと訴えるように。
身体が震えそうになっても、言葉が吐き出せなくても、アイリスは過去となったラザリーに思いを馳せることなく前だけを見て歩き続けた。




