涙の雨
ラザリーが永遠の眠りについた瞬間、ウィリアムズの真後ろの教壇から、吹き返すような浅い息が聞こえた。
「……ん」
子どもの声にはっとすると、教壇の下から、レイチェルが目を眠たそうに擦りながら這い出て来た。
眠りの魔法をかけたラザリーが息を引き取ったことで、魔法を継続する者がいなくなり、解けたのだろう。その場にいる皆がゆっくりとレイチェルへと視線を送る。
「……あ、れ?」
レイチェルはこちらを見ると、どうしたのかと首を傾げて問うている。彼女からすれば、知らない人間が自分を見ているのだから、驚くのも無理はないだろう。
「私……どうして、教会に……えっと……」
ラザリーの忘却魔法だけは持続されているのか、記憶が混合しているらしい。不思議そうに唸っていたレイチェルだったが、あまり気にすることではないと思ったのか、すっと立ち上がった。
だが、彼女つぶらな瞳はゆっくりと周りを見渡した後、一か所へと向けられる。ウィリアムズの膝の上で冷たくなっているラザリーを見て、レイチェルは更に首を傾げた。
「その人……寝ているの?」
「……そうだ」
答えたのはウィリアムズだった。
レイチェルは床を満たしているラザリーの血が、血だと分からないのか特に気に留めることなく、こちらへと歩を進めてくる。純粋な子どもからすれば、血を見る機会はそれ程多くはないだろう。
それに夜目が利いていなければ、黒い水が溜まっているように見えるのかもしれない。
アイリスはレイチェルに気付かれないように零した涙と額から落ちる血を服の袖口で素早く拭った。
「こんな場所で、寝ちゃったら……風邪を引いちゃうよ?」
舌足らずな言葉でレイチェルは心配そうにラザリーの顔を見つめている。
「……そうだな。だが、きっと……心地良いのだろう」
「嬉しい、ってこと?」
レイチェルの言葉にウィリアムズは父親のように微笑んだ。
「君の名前を聞いてもいいか」
「私? 私はレイチェルだよ。おじさんは?」
「私はセドだ」
「セド、おじさんっ」
知らない人であるにもかかわらず、レイチェルは友人の名前を知ったように嬉しそうに笑った。
「……こっちの人達、たしか村のお客さん。……この、眠っている人は?」
「っ……」
エリックが急いで、レイチェルから顔を背けた。ラザリーを知っていたはずのレイチェルは忘却魔法によって記憶を封じられている。
それを覚られるわけにはいかないと思ったのか、泣き顔を隠すように背中をこちら側へと向けた。
「……ラザリーだ」
「ラザリー、お姉ちゃん?」
「そうだ。……『薔薇の笑み』と言うんだ」
「ラザ、リー……」
瞬間、レイチェルの大きな瞳から涙がぽろぽろと雨粒のように落ちていく。
「……あれ? ……あれれ?」
ぽたぽたと、止まることなく流れる涙が自分のものだと気付いたのか、レイチェルは掌に落ちた涙を不思議そうに見つめている。
「何で、涙……。悲しい、の?」
首を傾げながらもレイチェルの瞳は目を閉じたままのラザリーへと向けられる。
「……私、このお姉ちゃん……知っている気がする」
「……」
「何でだろう……綺麗なお歌が、ずっと頭で響くの。でも……誰が歌っているのかな……」
小さく唸りながら、レイチェルは涙を手の甲で拭った。彼女の中で響く歌はどのような歌なのだろうか。
忘れていても、レイチェルの心の奥深くに留まる歌なら、きっと美しく、太陽のように温かい歌なのだろう。
「ラザリーお姉ちゃん、ここで寝ると寒いよ? 村にね、宿屋さんがあるから、教えてあげるねっ」
話しかけても返事がないラザリーに向かって、レイチェルは小さく笑っていた。その笑顔が無償で偽りないものだからこそ、ラザリーも惹かれたのだろう。
しかし、レイチェルの笑顔に答えてくれる声はもう、ないのだ。
「……レイチェル。今日はもう、帰ると良い。あまり遅くなると君の親が心配するよ」
ウィリアムズが穏やかな声色でレイチェルに向けて諭すように声をかける。
「でも、宿屋さんは?」
「大丈夫だ。道は覚えているよ」
血で濡れていない方の手で、ウィリアムズがレイチェルの頭へと手を載せる。ゆっくりと、柔らかそうな髪を撫でるとレイチェルは撫でられたことが嬉しかったのか、小さくはにかんでいた。
「……あっ、傘がもう一本あるから、おじさんに貸してあげるね」
レイチェルは駆けて、床の上に落ちていた二本の傘のうちの一本をウィリアムズへと持ってきてから手渡した。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
「お外ね、凄く雨が降っているの。だから……」
そこでレイチェルはもう一本の傘を持っている自分の手を見つめて、再び首を傾げる。
「あれ? どうして、二本も傘……持ってきていたのかな……」
「……」
その問いかけに答えられる人間はこの場にはいなかった。ラザリーとの記憶、感情を封じられているレイチェルに対して無闇に記憶を蘇らせるような発言をすることは出来なかった。
ラザリーが望んでいないと分かっているからだ。
「……ほら、雨が君を連れ去ってしまう前に、帰りなさい」
「はーい。……おじさん、またねっ。お姉ちゃん達もまたね!」
アイリス達はレイチェルに小さく微笑みながら頷き返す。教会の裏の入口から出ようとしていたレイチェルが最後にこっちを振り返る。
小さくつぶらな瞳はラザリーを見つめていたが、やがて顔を背けて、扉の向こう側へと出て行った。
「……」
レイチェルが去っていった後、ウィリアムズが息を短く吐いて目を閉じる。
何も知らない。
何も感じない。
何も見ていない。
レイチェルはこの先、そうやって生きていくのだ。それこそが、目の前で眠っているラザリーが求めた最後の望みだ。
自身を忘れられる事こそが、自分の愛する者達にとっての幸せだとラザリーは見出していた。
優しい魔法であるはずなのに、アイリスにとっては寂しくも悲しい魔法だと思えた。
……私は絶対に忘れない。
胸に刻むようにアイリスは自分の服の胸元を荒っぽく掴む。心に残る淀みはそこに漂ったままで消え去ることはない。
「……あとは私に任せると良い」
何かを決意したように再び目を開いたウィリアムズはいつものように、何を考えているか分からない顔をしていた。
「……何をするつもりですか」
それまで黙っていたクロイドが静かに訊ねる。
「この村の人間全てから、ラザリーに関する記憶を消す」
「っ……」
何の罪を犯していない人間に対して、忘却魔法を使うことは禁じられている。しかも、ウィリアムズは今、教団の魔法使いではない。
彼が執り行おうとしている事は静観すべきことではないと分かっているのに、アイリスはいつものように、駄目だと言うことが出来なかった。
天秤にかけられたのは秩序を守るための正義と己の利だけを考えた感情だったからだ。
「君達には迷惑はかけない。自分の不始末は自分で取るつもりだ。これ以上、罪が増えても今更だからな」
薄く笑ったウィリアムズの表情が、ラザリーが自嘲した際の笑みと重なった気がした。
「……この子の亡骸も手厚く葬ってやりたい。だから一日だけ、私が今から犯す罪を見逃してくれないか」
ウィリアムズの問いかけに、アイリス達は黙り込むしかなかった。彼が考えていることは理解している。自分の持っている感情がどういうものかも分かっている。
それでも、すぐに頷く事が出来なかったのは何故だろうか。
「……私、何も知らないです」
最初に言葉を発したのはエリックだった。
「何も知らないし、見ていないです。……多分、そうしたいと思ってしまう自分は規律よりも感情で揺れ動いてしまう、愚かで優柔不断な人間なのだと分かっています」
「……」
「でも、私は……ラザリーさんの最後の言葉を……なかった事にはしたくないんです」
それまで堪えていたのかエリックが涙を零し始める。
「強く、何かを強く願うことなんて、私には出来ないです。だけど、意志をちゃんと受け取りたい……。彼女の想いだけは受け取りたいんです」
濡れた瞳のまま、エリックは喘ぐように言い放った。震えながら言葉を紡ぐエリックを見てアイリスは唇を噛み締め、そして深く息を吸い込んだ。
「……ウィリアムズさん。……あとは宜しくお願いします」
絞り出した言葉はそれだけだった。
「……あぁ」
力強くウィリアムズが頷いたのを確認してから、アイリスは立ち上がる。
見下ろすラザリーの表情は本当に人形のように白かった。この白さに、柔らかな色が戻ることは二度とない。
アイリスはそのまま教壇へと向かい、引き出しを開く。
引き出しの中に入っていたのは5冊の本だった。分厚い本を手に取って、物憂げに眺めているとウィリアムズから声をかけられる。
「それは?」
「……ラザリーが村の子ども達に買ってきた本だと思います。……最後に子ども達に渡しておこうかと」
どういう目的でラザリーがこれらの本を子ども達へと買ってきたのかは分からないが、彼女の残した言葉を実現させておきたかった。
「……それなら、私が本を渡しておこう」
「え……」
「ラザリーに関することなら、全て任せておいてくれて構わない。……君達も宿屋へ戻ると良い」
「……」
ウィリアムズの言葉がアイリスにとっては別のものに聞こえていた。
――今は一人にして欲しい。
そう、聞こえたのだ。
「……分かりました」
アイリスは持っていた本を教壇の引き出しへと戻す。素早くクロイドとエリックに目配せすると、二人は頷き返す。彼らもウィリアムズが暗に言いたい事が分かっているようだ。
「……それでは私達は下がらせてもらうので」
「あぁ」
ウィリアムズの横を通り過ぎ、ハオスとの戦闘中に放り投げてしまった長剣を拾い上げてから、鞘へと納め、外から見えないように布で巻いていく。
「……」
無言の空気が続く中、言葉を発するものはいなかった。
クロイドとエリックも教会を発つ準備が出来たのか入口の扉の前に二人並んで立っている。その四つの瞳が真っすぐと映しているのは壇上で座ったままのウィリアムズと目を覚まさないラザリーだった。
アイリスは口を一文字に結んでから、瞳に焼き付けるように、その場に佇んだままの二人の姿を見つめる。
込み上げるものだけが、喉の奥へと引っかかる。吐き出してしまいそうになる感情を押し留めるには、現実はあまりにも虚しかった。
横になっているラザリーから引き剥がすようにアイリスは視線を背けた。もう、振り返ることが出来ないのは自分の心の弱さ故なのだろうか。
扉を押せば、全てを垂れ流すように振り続ける雨がそこにはあった。きっと、この雨の中でならどれ程、涙を流しても許される気がした。
アイリスは雨空に向けて、顔を上げる。それでも、頬を勢いよく濡らし始める雨が慰めになることはなかった。
――その日の夜中、村中に響き渡る轟音が眩い光と共に落ちた。一度きりの雷が落ちた場所は教会だった。




