薔薇の笑み
「っは……。……叔父様」
息をするごとにラザリーの口から血が零れる。それでも彼女は言葉を綴ることを止めなかった。
「お願い、があるの」
「何だ」
縋るような瞳でラザリーはウィリアムズを見つめる。彼女の震える手がゆっくりとウィリアムズの手の甲へと添えられた。
「この村の……人達の記憶から、私を……消して」
「っ……」
ラザリーの決断にアイリスは小さく声を引き攣らせた。その言葉の全てに彼女が何もかもを置いていくということの意味が含まれていたからだ。
「私への感情も……築いた記憶も……何もかも。……どうか、消して欲しいの」
息を荒くしながら、ラザリーは言葉と共に血を吐いていく。目の奥の光は消えそうな程に力が弱く、表情は今にも消えそうなくらいに白く見えた。
「お願い。……私をいなかったことに、して」
「……」
ウィリアムズが何かを惜しむように瞳を閉じる。
アイリスは何も言うことが出来なかった。ラザリーが何故、自分を村人達の記憶から消して欲しいと願うのか分かっていたからだ。
彼女は自分がいなくなった後に、誰も悲しまなくて良いように、自分の存在を消すことを望んでいるのだ。最初からいなければ、誰も自分の死を悲しまなくて済む。
だから、彼女は村人達の記憶から自分に関わることを全て消し去って――置いていきたいのだ。
「……ここの人、本当に……お人好し、ばかりなの」
言葉が切れ切れになりながらもラザリーは薄く笑う。その笑みは自嘲ではなく、懐かしむものを思い出すような優しいものだった。
「私なんて……ただのよそ者なのに……。いつも嬉しそうに、名前を……呼んでくれるの」
「……」
誰も、何も言うことが出来ないまま、ラザリーの呟きだけがその場に響く。
「初めて……だったわ。『私』を……求められたのは……」
ウィリアムズ家の血筋であるラザリー・アゲイル。それこそが彼女を表す名前だった。だが、この村は今までのラザリーを知らない人達しかいない。
与えられ、求められたのは何気ないことなのだろう。だが、それこそが彼女を変える全てとなった。
「……優しさ、というものを……初めて、知ったわ。……笑顔の、温かさも……。私には……全て……もったいないくらいに、眩しかったの」
細められた瞳は虚ろだが、何か嬉しいことを思い出しているのか穏やかなものだった。
「きっと……私がいなくなれば、村の人達は悲しむわ。……だって、そういう人達ばかり、だもの……。優しさに、確かな理由なんて……ないまま、笑顔を向ける……そんな、愚かな人達なの……」
ラザリーの瞳が大きく揺らぎ、美しい雫が静かに流れていく。
「でも、私は……酷い、人間だから……。自分以外の……ものなんて、どうでも良いと思ってしまう、優しくない人間、だから……。そんな人間を、慕ってしまう……村の人に……私の、都合で……泣いて、欲しくなんか、ない……」
途切れていく言葉を必死に繋ぎながら、ラザリーは喘ぐように息をする。ウィリアムズがゆっくりと目を開き、触れられていたラザリーの手を包み込むように取った。
「お願い、叔父様……。私の……最初で、最後の……お願い、聞いてくれる?」
向けられる涙を溜めた瞳がウィリアムズを映す。
クロイドは顏をラザリーから背け、エリックは肩を震わせながら滝のように涙を零し続ける。
皆が、ラザリーの願いの意味を理解しているからこそ、現実を嘆かずにはいられなかった。
「……あぁ、分かった。約束しよう」
ウィリアムズから絞り出される声は震えてはいなかった。はっきりとラザリーの意志を受け取ったと言うように、彼は力強く頷く。
ウィリアムズが了承したことに安堵しているのか、ラザリーは小さく笑みを零した。
「……ありがとう、叔父様」
アイリスが握っていたラザリーの手はほとんど力が入っていなかった。冷たい石のように固まり始める美しく細い手はまるで造形された模型のように見える。
「……あと、ごめんなさい。……ウィリアムズ家の……願い、叶えられなくて」
以前、ウィリアムズが言っていたことをアイリスはふっと思い出す。
ウィリアムズ家をもう一度、有名な魔法使いの家に――。
「私が……もっと、まともな魔法使い、だったら……良かったのに」
「――君は立派な魔女だった」
ラザリーの言葉を遮るように、強い口調でウィリアムズは言い放った。
「ラザリー。君は我が家が誇る、美しく気高い魔女だ。偉大にならなくていい。ウィリアムズ家当主だった私が保証する。君は……私が知るウィリアムズ家の誰よりも一番、立派な魔女だった」
「……」
ラザリーの瞳は大きく揺れ動き、そしてどこか満足したように安堵の笑みを浮かべる。血で濡れているにも関わらず、その微笑みはまるで聖女のように柔らかく、美しいものだった。
きっと、これが最後の微笑みなのだ。そう感じてしまう自分が憎らしかった。
「その胸に誇ると良い。薔薇のように美しく、棘のように気高い心を持った……私の――
愛すべき薔薇の魔女よ」
初めてウィリアムズが笑みを零した。慈父とも言うべきその優しい面差しは、ラザリーだけを見つめている。叔父であるウィリアムズの姿をラザリーはその瞳に映し続けた。
最期の瞬間まで、彼女は瞳を開いたまま見つめていた。
ひゅっとラザリーが息を吐く。それ以降はラザリーの呼吸が聞こえることはなかった。静まったのは、一体何か。
音か、声か――それとも、感情なのか。
ウィリアムズは空いている方の手で、ラザリーの両目へと覆うように隠した。その手は確かに震えていた。それでも、彼は自らの手を止めることはない。
「……愛しているよ、ラザリー」
彼はそう告げて、開いていたラザリーの瞳をそっと――閉じた。
ウィリアムズはラザリーの顔を覆った手をゆっくりと離していく。そこには安らかな表情で瞼を閉じた姿のラザリーがいた。
もう、分かっている。目の前にいるラザリーが二度とその瞳を見せることはないのだと。
美しい声で歌うことも、鮮やかに笑うことも。二度とないのだ。
途切れた命を前にアイリスは目を逸らさないまま、見つめ続ける。
忘れはしない。忘れたりするものか。彼女が忘れることを望んでいても、絶対に自分は忘れたりなどしない。
動かなくなった手を握りしめながら、アイリスは心の中で誓った。




