置いていくもの
ウィリアムズが杖を振ろうとした瞬間、それまで目を閉じていたラザリーがゆっくりと瞼を動かした。
「ラザリー」
低い声でウィリアムズがその名前を呼ぶと彼女は血で零れた口元を少しだけ緩める。
「……あら、叔父様じゃないの」
ウィリアムズがラザリーの頭を少し持ち上げて、自らの膝の上へと身体を半分乗せた。
彼の服がラザリーの血によって色を滲ませていく光景にアイリスは唇を噛み締める。
「……どうして、ここに?」
「君をずっと探していたからだ」
「……そう」
静かに紡がれる会話は、雨が降っているにも関わらずはっきりと聞こえた。
ラザリーの視線がゆっくりと治癒魔法をかけ続けているエリックの方へと向けられる。
「……もう、おやめなさい。ハワード家のおちびちゃん」
「ふぇっ……。で、でも……」
両手をかざし続けるエリックは驚きの表情でラザリーへと振り返る。幼い面影がまだ残っているエリックの表情が悲しみで歪んでいた。
「私、無駄なことは嫌いなの。……あなたが魔法をかけ続けても、意味がないことくらい分かっているのでしょう?」
嫌味のようには聞こえなかった。まるで、その言葉は自分の死を受け入れているように聞こえたからだ。
治癒魔法は使い手だけでなく、魔法を受けている側にもそれなりの負担はかかっている。魔法を受ける際に、現状を保つための体力と精神力がどれ程続くのかが関わって来るからだ。
ラザリーが震える手でエリックへと伸ばし、そっと触れる。
かざしていた両手を無理矢理に下ろしたことで、エリックがかけていた治癒魔法は中断されることとなる。
エリックがかけていた魔法は止血と止痛だ。
今、治癒魔法を中断させれば、止めていたはずの出血と痛みが時機にラザリーへと戻って来るだろうに、彼女は躊躇うことなく魔法を使わせることを止めさせたのだ。
「……ハワード家なのに、お人好しなおちびちゃんね」
エリックに触れていた手をラザリーは床の上へと下ろす。
小さな身体が震えているのは、エリックが涙を流していることを意味していた。
「でも……あなた、良い魔法使いになると思うわ」
「っ……」
引き攣ったような言葉にならない声をエリックは呟く。大きな瞳からぽろぽろと零れる涙が床の上へと滴っていく。
ラザリーの瞳はそのままアイリスの方へと向けられた。
「……何て顔をしているのよ」
「……」
馬鹿にするような声さえも、今はかすれて聞こえてしまう。どうして、彼女は自分の身に迫る死を簡単に受け入れられるのだろうか。
「あぁ……。本当に馬鹿みたい。こんなことで、全部終わるなんて」
自嘲の呟きには思えなかった。悟っている故の言葉にアイリスは顔を歪ませる。
「……笑えばいいじゃない。あなたの嫌いな人間が無残に命を散らそうとしているのよ?」
「笑えるわけがない」
ラザリーの言葉をはっきりと切り捨てるようにアイリスは言い切った。
「笑えるわけが……ないでしょう」
アイリスはその場に腰が抜けたように座り込んだ。誰もが言葉を殺していた。ラザリーだけを静かに見つめているのだ。
「……利用されるだけ、利用されて。あなたを殺そうとした私の延命を求めるなんて、本当に馬鹿ね。お人好し。ただの間抜けよ」
「それでも構わないわ。私は……あなたに死んで欲しいなんて、一度も思ったことはないもの」
アイリスは押し付けるように持っていた人形をラザリーの手へと渡す。
しかし、彼女は受け取ることなく、その人形を手の甲でそっと撫でるだけだ。
「あぁ、取り返したのね。……良かった」
最後に消えそうな程に小さく呟いた言葉は彼女の本心なのだろう。それを心残りがないと思わせる表情で言ったように見えて、アイリスは思わずラザリーの手を掴んだ。
氷のように冷たくなった手は、血によって赤く濡れている。それでも構わず、温度を分け与えるように握りしめた。
「……この人形、祓魔課に持って行ってくれるかしら。入れてしまった村の人達の魂を出して、送ってあげて欲しいの」
「そんなのっ……」
アイリスの頬に熱いものが線を描く。吐き出さずにはいられなかった。
――生きることを諦めるな。
そう言いたいのに、言う事さえも出来なかったのは心の奥で現状のラザリーを助けるための打つ手はないと感じてしまっているのかもしれない。
「……あなたが、自分の手でやればいいでしょう。今、ここで……諦めるのではなくて……。あなたの手で……」
その申し出を受ければ、ラザリーは安心して目を閉じるに決まっている。何とかして、繋ぎ止めたいアイリスは涙が零れるのも気にしないまま訴えた。
「聞き分けなさい、アイリス・ローレンス。……あなたなら、人が死ぬ限界というものがどのくらいなのか分かっているでしょう。……私はもう、助からない。そんなこと、分かり切ったことじゃない」
早口でまくし立てるように彼女は言葉を吐いていく。言い残すことがないようにも見えたアイリスは唇を噛みしめ、手に力を込めた。
「……このまま……あなたを慕う村の人達を置いていくつもりなの」
「えぇ、そうよ」
抑揚なくラザリーは答えた。手から伝わる冷たさに、温かさが戻ることはないと言わんばかりに。
「無責任よ。そんなの酷いわ……」
諦めないで欲しかった。だが、傷を負ったラザリー自身が一番、自分がどういう状態なのか分かっているのだろう。
「そうよ。私はずるい人間なの。ずるくて、最低で……愚かな人間なのよ」
ウィリアムズの表情が僅かに動いたようにも見えた。
「だから、全部置いていくわ。感情も記憶も……何もかも全て」
ラザリーの瞳の光が先程よりも弱くなっていた。握りしめる手には全く力は入っておらず、ただ息だけをゆっくりと繰り返す。
荒く呼吸する音が次第に聞こえ始める。エリックが魔法を中断させたため、痛覚が戻り、出血が再び始まったのだ。
綺麗な顔を強く歪ませ始めるラザリーはそれでも、痛みを抑え込んでいるように見えた。




