血濡れの剣
「まぁ、どっちからでも、面白そうだけどなぁ!」
ハオスが指を鳴らした瞬間、アイリスの頭上に魔法陣無しで鉄杭が再び出現する。
その大きさは今まで見た中で一番形が大きく、先端がより細く尖っているものだった。
「っ!?」
すぐに気付いたアイリスは床を転がるようにその攻撃を避けた。
巨石が落ちたような音がその場に響き、先程まで自分がいた場所は鉄杭によって大きな穴が開いている。
アイリスは砂ぼこりだらけになった身体を叱責し、上体を起こしつつ次の攻撃に備えた。
しかし、立ち上がったアイリスの目に映っていたのは同じように鉄杭の攻撃を受けているクロイドの姿だったのだ。
クロイドが作っている結界にハオスが出現させた鉄杭が半分近くまでめり込んでいる。その攻撃に耐えるように結界の維持に努めているクロイドの表情が歪んで見えた。
そして、横になっているラザリーを守るべく、エリックが彼女の上へと覆いかぶさるようにして盾となっている。
あの結界が破かれたら、その場にいる全員が攻撃を受けるのは明白だった。鉄杭は砂のように形を変えることなく、奥深くにねじ込み続けていく。
「っ……!」
考える前にアイリスの身体は動いていた。
ふらついていた身体など、もう忘れてしまった。目の前の光景だけが、まだ痛みが鈍く残る身体の中を巡る血を勢いよく循環させていく。
長剣の柄を握り直し、アイリスは床を強く蹴った。
そして迷うことなく、ハオスに向けて一撃を放った。
「おーっと……」
アイリスの一撃をハオスは余裕の笑みを浮かべたまま颯爽と避けていく。
避けられた先に教会の天井を支える柱が現れ、アイリスはそれに一度足を着けてから、再び踏み台にするように柱を蹴った。
「このっ……!」
空中に向けてアイリスは大きく跳躍した。
「ははっ! 曲芸師みたいだなぁ、アイリス!」
今度は薙ぐのではなく、長剣を水平に構えたままハオスの胸辺り目掛けて突き刺した。
しかし、剣先がハオスの身体へと触れる瞬間、彼は目の前で指を一度鳴らしたのだ。
「っ!」
その時、瞳に映ったハオスの表情は目下の者を見下すような嘲りが含まれていた。
ハオスに鳴らされた指によって、その場に爆風が巻き起こる。
空中にいた状態のアイリスは避ける術がないまま、目の前で起きた爆風をそのまま身に受けることとなった。
「――ッ!!」
爆風と共にアイリスの叫びがその場に響く。
アイリスの手に握られていたはずの長剣は爆風の影響により、その手を離れ、遠くの場所で大きな音を立てながら落ちる。
気付いた時には爆風を直接受けたアイリスは弾丸のように吹き飛び、教会の入口辺りの壁へとその身体をめり込ませていた。
先程、教会の柱に向けて身体が吹き飛ばされた時よりも、重い痛みが身体中へと巡っていく。
「ぐ、は……っ」
身体前方で受けた爆風の攻撃と背中で受けた痛みの両方により、上手く呼吸が出来なかった。
一度、咳き込んだ口からは血が滴っていく。
……身体が……。
額の傷が開いたのか、右目が赤いもので埋め尽くされていく。
震える手には握っていたはずの長剣は見当たらなかった。
クロイドから防御魔法をかけられている上でこの痛みが身体を襲っているというのなら、魔法をかけられていなかった場合、自分はどうなっていただろうか。
それさえも、今は考えられない。意識が遠のきそうになるのをアイリスは何とか気合だけで押し留める。
「っは……」
臓器を揺さぶられた上に身体を自分よりも堅いものに叩きつけられたのだから、そう簡単に回復できるわけがないと分かっている。
それでも、自分が立たなければいけないのだ。
「アイリス!」
「アイリス先輩っ!」
クロイド達が悲痛な声で自分の名前を呼んでいるのは分かっているのに、その言葉に返すことは出来なかった。
……せめて、身体さえ動けば。
動け、動けと何度も念じても、石のようになってしまった身体が動くことはない。骨折しているわけではないのに、力が入らないのだ。
「おいおい、もう終わりかぁ? もう少し楽しませてくれよ。もっと踊ってくれよ~」
馬鹿にするような声が耳に入って来る。感情だけは熱く燃えているというのに、身体が言うことを聞かない。
……私の身体なら、動きなさい。動いてみせなさいよ。
叱責しても、震えた手が指先を少し動かすだけだ。
「何だよ、もう駄目なのかぁ~? これだから人間は……餌にしか使えない下等種だぜ」
怒りが沸き起こっても、それを示す手段がない。
目の前にいる敵を討ち取りたい。大切なものを守りたい。
だが、想いだけでは駄目なのだ。
……どうして、動かないのよ!
左目だけがその場を映す。クロイドが壁にもたれたままのアイリスを見て、悲壮な表情をしていた。
本当はこちらに駆け寄りたいと思っているのだろう。それでも彼は破れそうになる結界を必死に保ちつつ、ラザリー達を守ってくれている。
そうだ、それでいいのだ。自分のことは後回しで構わない。どうか、ラザリー達を守って欲しい。
自分が守りたかったものをそのまま守っていて欲しい。
……打開策を見つけないと。
このままではいられないのは分かっている。
アイリスはもう一度、身体に力を入れてみた。
大丈夫だ。攻撃を受けた直後よりも、息は整っているし、身体に残る重みも少しは減った気がする。
無理にでもそう思わなければ、自分が自分自身を一番許せないのだ。
手に力を入れて、足に力を入れる。
普段なら根性論なんて当てにしていない。それでも今だけは違う。
今だけでいい。どうか、もう一度、自分の身体が真っすぐと立ち上がるだけの力が欲しい。
「……はっ……ぐ……」
意識ははっきりしている。
このくらい、何ともない。平気だ。大丈夫だ。
だから、立ち上がれ。立ち上がらなければ、目の前で大切なものを失う。そんな光景を見たくはないと分かっているはずだ。
震えるように息を吐きながら、アイリスは両手に力を入れて、身体を少し浮き上がらせる。
「……へぇ? やるじゃん、魔力無しのくせに」
ハオスの嘲笑が聞こえても、アイリスは立ち上がることだけに集中した。
この腕は、この足は何のために存在しているのか。そう、それは自分が守りたいと思ったものを守るためだ。
魔力無しだろうが、ローレンス家だろうが関係ない。
アイリス・ローレンスという人間は、絶対に諦めたりはしない人間だ。だから――。
最後に腕に力を込めてから身体を支えつつ、片足からゆっくりと血を巡らせることを意識して、足を立てる。
「く……っ」
右足を立ててから左足をゆっくりと立てる。
身体が鉄の鎖に繋がれているように重いがそれさえも忘れたように、アイリスは口元に付いた血を手の甲で拭き取った。
自分はまだ立てる。終わりじゃない。
剣が、守り手が折れるわけにはいかないのだ。
アイリスの空色の左目は影を含んだまま、頭上のハオスを見上げていた。




