選ぶもの
「――クロイド、一度結界を解いて」
ラザリーの枕元に跪いていたアイリスは感情の色を表情から失くしたまま立ち上がる。
アイリスを仰ぎ見たクロイドは眉を深く寄せていた。自分が何を行なおうとしているのか分かっているのだろう。
だが、彼はアイリスの心情を察しているからなのか、止めろという言葉をかけてくることはなかった。ただ少し、悔しそうな表情をして頷くだけだ。
「……防御魔法はかけておくからな」
「頼むわ」
クロイドは「黒き魔手」を深くはめ直し、左手をすっとアイリスの方へと向ける。
「――身に覆うは霧の鎧。纏うのは鉄より重きもの。吹き抜ける風はその身を守り、汝が盾となる」
呪文から繰り出される防御魔法がアイリスの身体を覆っていき、見えない防御の鎧となる。温かく感じるのは彼の優しさから生まれた魔法だからだろうか。
この防御魔法なら、ある程度の攻撃を防いでくれるし、見えない鎧を着ているのと一緒なので、生身の身体に傷は入らないはずだ。
ただ、相手は悪魔であるためこの防御魔法がどれくらい効くかは未知数である。
先程、ラザリーとハオスの戦闘を見たが、彼の魔法の威力は抑えられているように見えた。もしかすると手加減していたのかもしれない。
ハオスの攻撃力がどれ程のものかまだ判断つかねているが、逃げるつもりはない。残虐性に楽しさと快楽を求めるハオスの事だ。
自分が屈した時点で、誰かしらの魂を持って行くために殺戮に走ることは目に見えている。
「私が結界から出たら、もう一度張り直して。絶対にラザリーとレイチェルを守って。……エリックもラザリーの傷の治療をお願いね」
「は、はいっ……!」
涙を瞳に溜めながらもエリックは力強く頷いてくれた。
本当なら今すぐにでもラザリーを医者に見せに行きたいところだ。事前に調べたがトゥリパン村には外科手術が出来る医者はおらず、せいぜい薬を扱う雑貨店があるくらいだ。
それならば病院がある隣町まで馬車を使ってラザリーを運んだ方がいいだろう。
だが、このままハオスを放っておけば、村の誰かが「100人目」の魂として殺されることは聞かなくても分かっていた。
それだけでなく、見境なく人を殺してしまう可能性だってあるかもしれない。
「……アイリス・ローレンス」
掠れた声が聞こえ、アイリスは小さく後ろを振り返る。
目を薄く開いたラザリーは浅く呼吸をしながら、言葉を零した。口からは鮮血が滴り落ちて、ラザリーの白い肌に赤い線を描いていく。
「人形を……」
その一言で彼女が何を伝えたいのかを察したアイリスはラザリーを真っ直ぐ見て、頷き返す。
アイリスの答えに安心したのかラザリーは口元を少し緩めて、再び瞳を閉じた。
ラザリーの願いはハオスから人形を取り戻すことだ。
悪魔が手にしている人形にはこのトゥリパン村の住人に関係する人の魂が封印されている。このままハオスに持って帰られてしまえば、その魂達は確実に魔物の餌となるのだろう。
村人に世話になったラザリーはその所業を止めたいのだ。例え彼女がハオスに騙されて、魂を回収していたとしても。
はっきりとラザリーの意志を受け取り、アイリスは唇を噛み締めつつ、もう一度決意する。
彼女は重傷を負っているというのに自分の命が助かるよりも、大事だと思ったものを守ることを選び取った。その覚悟を無駄にしてはならない。
「……解くぞ」
クロイドの言葉によって、自分達を守っていた結界は一瞬だけハオスとの境目を無いものとする。
アイリスはゆっくりと一歩ずつ前へと歩を進めていく。
「――透き通る盾」
クロイドの呪文が響き渡り、再び出現した透明な結界によって、アイリスとの間に見えない境目を作る。
こちらを心配するような瞳でクロイドは見ていたがアイリスは無表情のまま一歩、また一歩前に進んでいく。
「……何? 今度はお前が俺の相手をするのか? 俺も暇じゃないんだぜ?」
挑発するような口調で、頭上から声が降って来る。
それさえも無視して、アイリスは長剣を隠すために覆っていた布を剥ぎ取り、その場に布を放った。
白い鞘に金の蔦の細工が施された「純白の飛剣」を腰のベルトへと差し直して、柄を強く握りしめて剣を抜く。そして、そのまま白銀に煌めく刃先を頭上に浮かぶハオスへと向けた。
「おいおい、止めておけよ。お前はまだ殺す時期じゃねぇんだ。下手に傷付けたら俺の方がエレディテルに叱られるんだぜ?」
「……小娘如きに躊躇するのね」
挑発を挑発で返すとハオスの瞳がすっと細められた。彼は何とも分かりやすい性格をしているようだ。
「大悪魔『混沌を望む者』なのでしょう? 小娘一人の相手も出来ないのかしら」
「……俺が遠慮してやっているのに、調子に乗りやがって……」
ハオスの口から零れた声は見た目の少女の姿とは真逆のもので、地の底から這いあがるような低い声だった。
「その人形を渡しなさい。そうすればあなたは自分の血を見ずに済むわ」
「はっ」
心底、馬鹿にしていると言わんばかりの表情でハオスは両手を大げさに広げて見せる。
「嫌だね。……まぁ、お前の力量がどれくらいのものか試してやってもいいぜ」
元々、戦闘を好む性格なのかハオスは口が裂けるのではと思える程、大きく弧を描いて笑みを見せる。
「……」
アイリスは「青嵐の靴」の踵を三回鳴らして、いつでも跳べるように準備してから剣を構えた。
後ろから視線を感じるのはクロイドとエリックが心配しているからだろう。
……私は大丈夫。
守るべきものも、やるべきこともしっかり分かっている。
必要なのは覚悟。絶対に負けるわけにはいかないという強い意志だ。
悪魔と対峙しているというのに、心が凪のように静まっているのは恐らく、自分でも驚くくらいに冷静でいるからだろう。
目の前の敵を倒す。それだけが頭の中にはっきりと目的として提示されていた。
「それじゃあ、始めようか。――アイリス・エイレーン・ローレンス」
悪魔が浮かべた笑みは少女の華やかさを含めた無邪気という言葉が似合う嘲りだった。




