微笑み
壇上のラザリーは静かにハオスだけを見据えているようだ。それは怒りよりも苛立ちの方が大きいらしく、握られた拳に青筋が浮かんでいた。
「言っただろう? お前には無理なんだって」
ハオスはわざとらしく両手を広げて溜息を吐いた。
「俺達の力を借りたって、所詮お前は霊体を操るしか能がないんだから」
黒い煙が全て晴れ渡り、再び冷たい空気がその場に張り詰めていく。
「まぁ、お前も材料くらいにはなるだろうけど、今やるのは勿体ないってエレディテルに叱られそうだしな」
ハオスが人形を抱えたまま、ゆっくりとその場にいる者達を眺めるように見渡した。
「合理的に考えて、魔物の餌は最低でも100人分必要だからな~。……でも、ここにいるのはどいつもこいつも、今は殺せない奴ばかりだし。どうしようかねぇ」
……今は殺せない?
どういう意味だろうかとアイリスは宙に浮いているハオスをじっと睨んだ。今は殺せないということは、いつかは自分達を殺す気でいるという意味だろうか。
「手頃な村人でも殺そうかな」
ハオスの口が赤い弧を描いた。自分以外のものを大したものではないと表情で語っているようにさえ見える。
「……」
ラザリーの瞳がすっと鋭いものへと細められた。今まで見た中で一番、威圧感を放つその視線の理由をアイリスは何となく察していた。
「怖い顔だぜ、ラザリー? お前だって、俺達と同じようなものだろう? 自分以外は全て下等。自分を理解しているのは自分だけ」
呪文のようにハオスはラザリーに対して呟く。
「このまま俺達の研究に手を貸すって言うなら、お前に教団のぬるま湯に浸かっている魔法使い達よりも強い力を与えてやるぜ? まぁ、力を与えるのは俺じゃなく、エレディテルだけどな」
その悪魔の囁きはラザリーを捉えているようにさえ思っていた。
「……残念だけれど、もうあなた達には興味ないのよ」
抑揚ない声でラザリーは答える。
「……お前、力が欲しいって言っていたじゃねぇか」
「ええ。でも、自分で思っていたよりも、その感情が冷めちゃったの。……だから、あなた達とはこれっきりにさせてもらうわ」
ラザリーは再び、右手をその場にかざす。彼女はハオスから人形を奪うことを諦めていないようだ。
「……はぁ~。つまらねぇな……」
ハオスが思いっきり舌打ちした音がその場に響く。
「まぁ、いいさ。……置き土産に村人をなぶり殺しにしてやるからよぉ! せいぜい、絶望して生きてくれやぁ!」
汚い声でハオスが大声で叫んだ時だった。
ラザリーが立っている壇上のすぐ傍にある、教会の裏側へと通じているらしい木製の扉が外からゆっくりと開いたのだ。
……まずいっ!
誰かが来たらしく、アイリスは顔をその扉の方へとすぐさま向けた。
扉が開かれた先には、二本の傘を両手に抱えた子どもがいた。
「っ、レイチェル!」
そう叫んだのはラザリーだった。彼女の表情に見た事のない動揺が表れる。
アイリス達も傘を両手に抱えた子どもが、先程ラザリーから帰るように諭された子どもだとすぐに気付いた。
子どもはラザリーだけを見ているため、空中に浮かんでいるハオスのことは気付いていないようだ。
しかし、ハオスは何も知らないレイチェルを見て、今までで一番意地汚い笑みを浮かべた。
「……へぇ、一人分にはちょうど良さそうだな」
悪魔の笑みが真っすぐとレイチェルの方へ向けられている。嫌な予感がしたアイリスはいつの間にか叫んでいた。
「ラザリー!!」
ラザリーもハオスの言葉を聞き取っていたのだろう。表情が青白いものへと変わっていく。
ハオスが人形に入れるための魂としてレイチェルを選んだのだ。
「っ!」
「――氷の槍」
ハオスが右手の指を一度鳴らす。瞬時に冷たい空気がハオスの周りへと集まっていき、一つの形を作っていく。
それは空気中の水分を凝結して作られた氷の槍だった。長細く透明な物体からは白い空気が発生しては消えていく。
この距離からでは、踵を鳴らして飛んでも間に合いはしない。瞬時にそう覚っていてもアイリスは走っていた。
クロイドもハオスが何をしようとしているのか分かっているのか、悪魔に向けて手をかざす。
間に合え、間に合えと心の中で呟いた。
「――行け」
ハオスの躊躇ない号令がその場に響き渡る。
……間に合わない!
冷たい空気を纏った氷の槍が息をする間もなく、アイリスの前を通り過ぎていく。
それはやけにゆっくりと見えた。
恐ろしい程に、ゆっくりと見えたのだ。
鈍い音と鋭い音が同時に混じり、やがてその音は止んだ。
「……」
アイリスは目の前で起きている光景が現実だと信じることが出来ないまま目を見開き、足を止める。
「……っ」
浅く息を吐いたのはラザリーだった。
彼女はレイチェルをハオスの攻撃から庇うように両腕で抱きしめつつ、壁となっていた。
その背中に深々と刺さる1メートルくらいの氷の槍がラザリーの血で赤く染まっていく。
引き攣った声を出したのはエリックだろうか。
「うわぁ~。価値がない魔力無しの子どもの盾になるとか、引くなぁ~。せっかくお前は生かしておいてやろうと思ったのによ」
馬鹿にするような声が響き渡ってもラザリーは動かない。
そして、ラザリーの腕の中でレイチェルは何が起きているのか分からないと言った表情で、自分を抱きしめているラザリーを見上げていた。
「ラジー、お姉ちゃん?」
レイチェルの場所からでは、ラザリーの背中に深々と刺さっている氷の槍は見えていないようだ。
しかもラザリーが着ている服は黒で統一されたものであるため、血で染まっても水で濡れたようにしか見えない。
「レイチェル」
ラザリーがレイチェルを抱きしめたまま穏やかな微笑を浮かべる。
本当なら、優しい笑顔も浮かべることが出来ないほどに苦痛が襲っているはずだ。それなのに彼女は笑みを浮かべ続けた。
「どうして戻ってきてしまったの? 雨があなたを攫ってしまうわ」
息をすることさえ辛いはずだ。それでも彼女は何事もないように言葉を紡ぐ。
ちらりとアイリスに一瞬だけ向けられた視線は、何も話すなと訴えているように見える。
その訴えを受けなければ、重傷を負ったラザリーが助かる可能性はあるはずだ。傍から見ても氷を赤く染めていく出血量は異常なのだ。
なのに、ラザリーがそれを許さない。
「あのね、わたし……傘を持ってきたの。ラジーお姉ちゃん、前使っていた傘が壊れたって言っていたから……」
「そう、ありがとう」
ラザリーはレイチェルをさらに強く抱きしめる。その光景をアイリスはただ黙って見るしかなかった。
彼女は自分が負った傷を覚られないように演技を続ける。その状況を止めることは出来なかった。
「レイチェル、聞いて。……教壇の引き出しに、本が入っているの」
「本?」
「そうよ。あなたや皆のために買ってきたの。これを読んで、ちゃんとお勉強するのよ」
先程よりも少し早口でラザリーはそう告げる。
「うんっ! ありがとう、ラジーお姉ちゃん」
レイチェルの言葉を聞いたラザリーは嬉しそうに微笑んだ。その微笑みは聖女のように美しく、優しいものだった。
「……この先、私がいなくても。ちゃんと、生きてね」
ぼそりと呟かれた言葉は血と共に滴り落ちていく。
アイリスが一歩前へと動いたが、ラザリーはすぐに横に首を振った。邪魔をするなと言っているのだ。
分かっている。彼女がレイチェルの心のために痛みに堪えていることを。
だが、早くしなければ自身の命が危ないのだ。どうか、それ以上傷付かないで欲しい。
「……お姉ちゃん?」
突然、何を言っているんだとレイチェルの瞳が問うている。それでもラザリーは穏やかに、歌うように言葉を繋いでいく。
「……ありがとう。温かさと、優しさをくれて。……あなたを……皆を……ずっと愛しているわ」
口から大量の血を吐いてもラザリーは背中に突き刺さる槍を抜こうとはしなかった。
右手でそっとレイチェルの両目を覆い隠す。浅い息は何度も吐かれては吸い込まれていく。
「……あなたは何も知らない。何も見ていない。何も聞こえない。だから、怖がらなくていいわ。全て……全て忘れるの。今日のことも、私に向ける感情も――私のことも」
それは歌のようにも聞こえる呪文だった。美しい声が一つ一つの言葉を紡ぎ、流れを繋いでいく。
「……おやすみなさい、レイチェル。良い夢を」
ラザリーの言葉に従うようにレイチェルの膝はゆっくりと曲がっていく。力を失くしたその身体はラザリーへと寄りかかった。
……あぁ、彼女は。
アイリスは唇を噛み締めつつ、その光景を焼き付けようと目を逸らさなかった。
ラザリーはレイチェルを眠らせたのだ。自分に関する記憶と感情を全て、封印して。
自分を慕ってくれる、小さな子どもの優しい心を守るために。




