瘴気
ラザリーの足元から這い出て来た魔物の死霊の気に当てられたのか、アイリスの後ろにいたエリックが口元を押さえて身を縮めていた。
クロイドも少しずつ形成されていく影のようなものを鋭い視線で見つめている。
「――さぁ、行きなさい。あの子の喉を掻き切ってあげて」
ラザリーがすっと右手を前方へと伸ばした瞬間、形作られた魔物の死霊は勢いよく宙へと飛び出していく。
死霊だがその殺気だけは生身で感じられる本物の気配に思わず鳥肌が立ってしまう。
「お~、怖いねぇ」
わざとらしく聞こえる言葉は明らかにラザリーを下に見ている証拠だ。
ハオスは宙に浮いたまま、襲い掛かって来る魔物の死霊の動きを全て把握しているかのように、攻撃を避けていく。
魔物の死霊は唸り声を上げて、空中でハオスの方へと身体の向きを転換しては攻撃を続ける。
何度も歯を立てるようにハオスへと襲い掛かるが、その動きはアイリス達から見れば、かなり早いものだ。
それにもかかわらず、ハオスは瞬間移動のような動きで魔物の死霊の攻撃を避け続けた。
「無駄、無駄。お前の魔法じゃ、俺には敵わねぇよ」
まるで、新しいおもちゃに飽きたと言わんばかりに深い溜息を吐きつつ彼はそう言った。
人形を左手に抱き直し、ハオスは右手をその場にかざして左から右へと一閃を薙いでいく。
瞬間、ハオスを捕らえ損ねた魔物の死霊は内側からその身を爆発させたように破裂したのだ。その死霊の四肢は微塵となり、跡形もなく吹き飛んで消えていった。
破裂した際に起こった突風に身体を飛ばされないようにアイリスは足に力を入れて、前方へと顔を上げる。
頭上に浮いたままのハオスは余裕の笑みを浮かべて、壇上に立っているラザリーを見下ろしていた。
「なぁ、分かっただろう、ラザリー。お前には無理なんだよ」
「……」
だが、ラザリーは気落ちしているわけではなかった。
ふっと口元を緩めたのだ。
「あなたの方こそ、私を舐めすぎじゃないかしら。――出でよ」
ラザリーによって呟かれた最後の言葉は魔力を持っていないアイリスでも、強い力が込められたものだと身を以って感じられた。
圧と寒気の両方が瞬時にその場を埋め尽くしていく。
「……へぇ?」
ハオスの表情が少しだけ愉快なものを見ているかのように、小さく歪んだ。
ラザリーを取り巻く空気は重いものへと変化していく。
「――そいつを食べなさい!」
大声でラザリーが言葉を発した瞬間、ハオスの頭上に青紫に光る巨大な魔法陣が出現する。
「っ!」
アイリスが息を飲み込んだと同時に、ハオスの頭上に出現した魔法陣から漆黒の翼を持った竜のような影が姿を現し始める。
その身体は巨大なもので、教会の天井半分を埋め尽くすほどの痩躯を持っていた。
「おー! こいつは楽しそうだ! ……良いぜ。お前の本気がどれくらいなのか相手してやるよ」
何をする気なのか、ハオスは出現した魔物の死霊に向けて人形を持ったまま両手を掲げたのだ。
魔物の死霊は翼を広げつつ、咆哮した。その身体に纏っている瘴気は深い黒と紫が混じったような色をしていた。
瘴気をその身に纏っているのは、魂を浄化されることなく死んだからだろう。
アイリスはこの状況が危険だと判断し、クロイドに目配せする。クロイドも同意なのか瞬時に両手をかざしてこちらの身を守る防御結界を魔法で張ってくれた。
結界が張られた瞬間、魔物の死霊は完全に魔法陣から身体を這い出して、大きな口を開けてハオスに向けて突撃したのだ。
その反動により、先程よりも大きな振動が結界越しでも伝わって来る。
魔物の死霊はそのままハオスを口に押し込めるように一口で飲み込んでいく。
それはまるで鳥が魚を一飲みしているような場面にさえ見えて、アイリスは目を丸くした。荒事に慣れていなければ、吐き気が襲ってきそうな一場面だ。
「ひっ……」
衝撃の光景に対して、後ろにいたエリックが小さな悲鳴を上げる。
悪魔が死霊に食べられるなど、聞いたこともないし、見た事もない。そもそも、あのハオスという悪魔に実体はあるのだろうか。
以前、対峙したメフィストは霊体であったので、物理攻撃は全く効かなかった。
「……やったのか?」
隣に立っているクロイドは目を細めながら、ハオスを飲み込んだまま動かなくなっている魔物の死霊を見据えている。
「ハオスの気配は感じる?」
「……魔力は感じるな」
クロイドが言葉を返した時、目の前で動かなくなっていた死霊が虚ろの瞳を大きく見開かせる。
「ちっ……」
ラザリーが舌打ちしたのが聞こえ、彼女の表情が恨めしそうに歪んでいった。
ハオスを飲み込んだはずの魔物の死霊は内側から風船のように膨らんでいき、そして限界がきたのかその身体は先程の魔物の死霊と同じように一瞬で破裂したのである。
「っ!」
その衝撃はそれまでと比べ物にならないほどに大きいものだった。
魔物が纏っていた瘴気が重い塊の風のようになって、アイリス達を守っている結界へと直撃してくる。瘴気は黒い煙となって、結界の外を埋め尽くした。
「くっ……」
何とか結界の保持を努めようとしてくれているのか、クロイドの表情が少しだけ苦悶のものへと変わった。
だが、瘴気の衝撃波よりもクロイドの力の方が勝ったらしい。彼の作った結界はひび割れることなく、衝撃に耐えてくれたようだ。
「……」
アイリスは少しずつ、吹き晴れていく黒い煙の向こう側を見ようと目を凝らす。
そして、心の中で抱いていたものが確信へと変わったことを実感した。
「……あ~、汚れたじゃねぇか。瘴気って身体に付いたら落ちにくいんだよなぁ」
のん気にも聞こえる声が再びその場に響く。
アイリスが見上げた先には先程と変わらない姿のハオスがどこか面倒そうな表情で彼が着ている服を叩いていた。
魔物の死霊に喰われたというのに、見たところ傷一つついていない。
……悪魔というのは、やはり面倒だわ。
冷や汗が背中に伝うのを感じながら、アイリスは不気味なものを見るようにハオスを凝視していた。




