楯突く
「混沌を望む者……」
ぽつりとアイリスが名前を呟くとハオスは大きく口で弧を描いた。初めて聞くその名前は、心の中で呟くたびに重いものが増えていく気がする。
「……ブリティオンのローレンス家は一体何を始めようとしているの」
宙に浮かぶハオスに真っすぐな視線を向けつつ、アイリスは静かに訊ねた。簡単に聞き出せるとは思っていないが、何か少しでも情報は得ておきたかった。
「教えてやる義理なんて無いけど、一つ言うなら……。凄く面白くて、馬鹿みたいに楽しいことだな!」
「……」
やはり、嫌な予感しかしない。
アイリスがすっと目を細めてハオスを睨んでいると、彼は自分が腕に抱いている人形を両手で抱え直して首を傾げ始める。
「んー? 何だ、あと一人分足りないじゃん。100人分の魂を降ろせって、言付けておいただろう?」
「……は?」
ハオスの呟きに対して返事をしたのは後方にいたラザリーだった。
「この人形を渡した時に、言っただろう? 100人分の人間の魂を入れろって」
「……確かに言っていたけれど、魂を入れるってどういう意味よ」
ハオスの言っている言葉の理由がよく分からないと言うようにラザリーは顏を顰めた。
「あれ? 言ってなかったっけ? この人形に入れた魂は俺が飼っている魔物共の餌にするんだよ。色んな配合を加えて改良した肉と魂を喰った奴がどんな風に変わるか実験していてさ。まだ、実験途中だけど、見境なく人を襲えるくらいに理性を吹っ飛ばせて、限界ぎりぎりまで狂暴化させたいんだよねぇ~」
目の前に浮かんでいるこの悪魔は自分の行っていることに対して、アイリス達が引いているとは気づいていないのだろう。
それどころか残虐を残虐と意識しないまま、その実験を行っているようにさえ聞こえて、アイリスは吐き気がした。
「……待ちなさい。それなら私が村人達の前で降ろした魂は……その中に全部閉じ込められていると言うの?」
ラザリーは眉を寄せて、一歩ハオスの前へと出た。
「おお、そうだぜ? この人形の中に『封魂結晶』という魔具が入っていてな。エレディテルが作ったやつなんだけど、人形を通して降ろされた魂をそのまま吸い取るように封じ込めておいてくれるんだよ。本当に便利な魔具だよな~。おかげで餌の準備の手間が省けて助かったぜ~」
ハオスは元々お喋りなのか聞いていないことまで、すらすらと話してくれた。
だが、聞き捨てならない言葉にアイリスは込み上げてくるものを何とか抑える。今、自分よりも殺気立っているのはラザリーの方だと思ったからだ。
「……私を騙したの?」
ラザリーの宝石のように美しい瞳がすっと細められ、ハオスへと向けられる。
「確かに俺達はこの人形を使って、お前の力を認めさせてみろとは言った。それをお前は快く承諾していただろう? 利害は一致した上での人形の貸与だっただけであって、人形の持ち主である俺等が回収した魂をどう扱うかは関係ないはずだぜ?」
そこでハオスはにやりと笑う。
「それにお前だって死んだ奴の魂なんて、大した価値なんてないと言っていたじゃねぇか。今更、何に苛立っているんだ?」
「……私が腹を立てているのは、あなた達が私を騙したことについてよ。私、人を利用するのは好きだけれど、誰かに利用されるのは嫌いなのよ」
ラザリーは右足の踵で床を強く蹴り、甲高い音を立てる。糸を張り詰めたように冷たい空気がその場を満たしていく。
「……何だ? 俺とやるつもりなのか?」
馬鹿にするような笑みをハオスは浮かべつつ、ラザリーを見下ろす。
アイリスもクロイドもこの状況下でどう動くべきなのか、様子を窺うしかなかった。
「――来たれ」
ラザリーの呼び声に答えるように空気が振動し始める。それに続けて、ラザリーはもう一度、右足の踵を鳴らした。
「我こそはその魂を握るもの。我が名の元にその姿を示せ」
以前、アイリス達の目の前で行っていた死霊を召喚する魔法である。
しかし、今回は魔具などを一切使っておらず、呪文のみでの召喚らしい。こちらが知らないうちに魔法の技術を高めていたのだろう。
「……その人形に入っている魂は返してもらうわ」
ぶわりと強風がラザリーの足元から発生した瞬間、黒い液体に見えるものが水溜まりを形成していき、その足元から漏れ出すように溢れ出てくる。
「おいおい、お前の魔法で俺に勝てると思っているのかぁ? この大悪魔、混沌を望む者様によぉ!」
ラザリーがどういう意図を持って、ハオスに奪われた人形を返してもらおうとしているのかは分からない。
しかし、彼女なりに思うところがあって、それまで利害関係を築いていたハオスに楯突いているのだと察した。
「何が大悪魔よ。どうせ、あなたもエレディテル・ローレンスによって生み出された実験体に過ぎないくせに」
ラザリーの嘲笑うような挑発に対して、ハオスは鼻を鳴らした。
「お前こそ、よく吠えるぜ。――小さな魔女のくせに」
「……」
最後の言葉がラザリーにとっては気分の良くない言葉だったのか、彼女の表情は氷で固められたように冷たいものとなる。
「……下がっていなさい、アイリス・ローレンス。あなたの出る幕じゃないわ」
その表情は無色であるにも関わらず、瞳の奥は激しく燃えるように剣呑と光っていた。
アイリスはちらりとクロイドの方へ視線を向ける。彼はこちらを見て小さく頷いた。どうやら、クロイドも後ろに下がった方がいいと思っているようだ。
アイリスは壇上から、クロイド達がいる場所へと素早く下がりつつ、身体の向きをラザリーとハオスへと向ける。二人は静かに見つめ合いながら対峙していた。
ラザリーはもう一歩前へと進んでいく。進む度に足元の黒い水溜まりが揺らめき、繰り返す波のように何かが零れ始めていく。
「……あなた達、ブリティオンの人間と接してみて、改めて分かったことがあるわ。最初は私に利があるからと我慢していたけれど、やはり無理なもの無理だったみたい」
ラザリーは無色だった表情を少しずつ歪めていく。
「誰かに指図されたり、目上からの態度って本当に腹が立つのよ。……でも一番、腹が立つのは私のことを良く知らない人間に私を語られることなの」
瞬間、ラザリーの足元から形を成さない影が這い上がるように出現する。揺らめく影は大きいものとなっていき、ラザリーに懐いているように彼女の周りを影で囲っていく。
霊体であるはずなのに、その死霊の口元からは血のような液体が零れ落ち、身体からは瘴気のようなものが纏わりついていた。
ラザリーが呼び出した死霊はアイリスが以前、剣を交えた魔物よりも血に飢えたように殺気立っているものだった。




