瞳の色
息をする前によりも早く、アイリスは地を蹴る。その動きに合わせるようにクロイドによって作られていた見えない盾は瞬時に消え去った。
クロイドとエリックからレイス達を引き離すために、アイリスは壁や柱を蹴りつつ距離を取った。
空中へと飛び上がったアイリスを追うように二体のレイス達は顏をこちらへと向けて動き始める。
その一瞬の隙をクロイドは見逃さなかった。ラザリーに向けて右手をかざし、呪文を素早く唱える。
「束縛せよ!」
だが、クロイドの攻撃を待っていたかのようにもう一体のレイスが自らラザリーの盾となる。
クロイドが放った魔法は霊体に効くものではないため、レイスに魔法がかかった気配はないようだ。
「ふふ……。無駄よ」
レイスの後ろでラザリーが口元に手を当てて、声を上げて笑っている。
アイリスは迫りくるレイス達の手からするりと逃げて、再び床の上へと着地した。
「ねぇ、アイリス・ローレンス。せっかくだから、レイスをあなたの身体に入れてみない? もしかすると魔法が使えるようになるかもしれないわよ」
挑発するような発言にアイリスは風を斬るように短剣を振り、ラザリーへと刃先を向けた。
「大きなお世話よ」
「……あなたも相変わらずなのね。まぁ、いいわ」
わざとらしく深い溜息を吐いて、ラザリーは耳に髪をかける。
「レイスってね、触れるだけで相手の生気を吸い取る事が出来るのよ。あなたがあとどのくらい強気でいられるのか、見ていてあげる。――やりなさい」
ラザリーが息をするように言葉を吐いた。その命令に抗うことなくレイス達は再びアイリスへと迫り始める。
「あぁ、そうだわ。……血が同じだから、あなたを別の人と勘違いしているみたいね」
「っ!?」
ラザリーの発言に気になる点があったが、今はそれどころではない。
足踏みをするようにアイリスはレイス達の手から逃れるために後方へと下がっていく。逃げるだけでは駄目だと分かっているが、隙が中々見つからず、体力ばかりが削られていく。
……一瞬だけでも。
隙があれば攻撃が出来るが、少しでもレイス達に触れれば生気を吸われてしまう。
霊体に効く魔法をクロイドがかけてくれれば、攻撃が出来る隙も生まれるだろうが彼はもう一体のレイスを相手にしているため、その余裕はなさそうだ。
「っ!」
しかし、気付いた瞬間にはもう遅すぎた。
逃げることに集中していたせいで、いつのまにか目の前に壁が迫っており、アイリスは急いで身体を反転させる。
真後ろにはレイス二体が自分を襲おうと両手を広げて近付いてきていた。
……ここで、迎え撃つしかない!
レイス達を討つための心の準備は出来ている。アイリスが息を吐いて短剣を構えた時だ。
「……く、透き通る盾!」
柔らかい声がその場に響き、アイリスとレイス達を隔てる見えない壁が瞬時に作り出されていく。
前方へと視線を向けると、両手をこちらに向けてかざしつつ、息を喘ぐように吐いているエリックがいた。
この目の前に作られた見えない盾はエリックによる防御魔法らしい。
やっと緊張と恐怖が薄れたのか、彼女の瞳に強い光が宿っているように見えた。
「わ、私が……アイリス先輩を援護しますので!」
声はもう震えておらず、はっきりとしていた。無理をしているだろうに、エリックは彼女なりの覚悟を決めたようだ。
アイリスはエリックに微笑を浮かべて頷き返す。これなら、クロイドも安心してレイス一体に集中できるだろう。
見えない盾の向こう側にいるレイスをアイリスは改めて見つめ直す。
レイス達は虚ろの表情でこちらを見ていた。
しかし、その瞳だけは力が込められているようにしっかりとしており、鋭い視線を自分に向けている。
……何か言っているわね。
二体のレイス達は何かを訴えるように口を動かしている。
だが、はっきりと目が合ったレイスの言葉を聞き取ったアイリスは固まってしまう。
「――レンス、……ない。ロー……ス……。許さ……ない……ローレンス……」
目の前にいる、怒気を込めた瞳のレイスがそう言ったのだ。
「ころ……す、ローレンス……。許さ、ない……」
見えない盾を割るためにレイスは何度もその腕で叩いてくる。
響くのは叩く音か、それとも自分の心臓の音なのか。身体が急に冷めたように熱が奪われていく気がした。
「――して……くれ」
もう一体のレイスが悲しみを込めた瞳にアイリスを映す。
「ころ……して、くれ……。いやだ……。消して、くれ……」
「ロー、レンス……。殺す……。よくも、騙して……」
このレイス達が紡ぐ、「ローレンス」という名前にアイリスは左手で口を押える。
彼らが言っているのはどのローレンスなのか。家の名か、それとも名前なのか。
……誰が、彼らをこんな風にしたというの。
どのローレンスだとしても、レイス達に対してやったことはあまりにもむご過ぎる。
怒りを含んだ瞳のレイスは殺したいと訴えている。
悲しみを含んだ瞳のレイスはその身を嘆き、消し去られることを望んでいる。
叩き破ろうと激しく腕だけが動き、彼らが持っている感情と行動が重なり合うことはない。レイス達はラザリーによって無理矢理に操られているため、彼女の言葉に従うことしか出来ない身なのだ。
……酷過ぎる。
込み上げてくる感情は誰に対してのものなのか、分からなくなってしまった。レイス達を操っているラザリーか、もしくは望まぬ姿へと変えた「ローレンス」か。
「ころす……。ローレンス……絶対に、ゆるさない……」
「見るな……。消してくれ……。どうか、頼む……」
吐かれる言葉が胸の奥へと突き刺さっていく。
……私は……。
このような姿になった彼らに、自分が出来ることは二つしかない。
一つは詫びること、そしてもう一つは――。
「エリック、魔法を解いて」
「えっ……」
「大丈夫よ。もう、息は整っているから」
エリックは少し戸惑う様子を見せたが承知したのか、軽く頷いてくれた。アイリスの動きに合わせて、エリックが魔法を解く。
自分達の間を隔てていた壁は瞬時に消え去り、アイリスは右肘を後ろへと下げてから勢いよく左側のレイスの胸を貫く。
「――っ」
胸を貫かれたレイスは口をぽかりと開けて、叫び声のようなものを上げた。
「……」
それが耳の奥だけでなく、心臓にまで反響していく。気持ち悪さが後味のように残った。
「……ごめんなさい」
アイリスは短く呟き、レイスの胸元に刺した短剣をまるで布を裁断するように、真下へと下ろした。
「清浄なる牙」の力によって、レイスの身体は切られた部分から光を帯び始め、やがて粒子となって宙へと舞い上がっていく。
光の粒となって消えていく間際の表情は怒りから、安堵したものへと変わっていたように見えた。
「アイリス先輩!」
エリックが悲痛な声を上げるも、アイリスは動じることなく、もう一体のレイスへと向きなおった。
だが、不審に思ったのはレイスが自ら動きを止めたように見えたのだ。まるでアイリスの剣を受け入れると言わんばかりに。
「っ……」
望んでいるのだ。
他人から道具として自らの魂を使われることを拒むために、その身が消えることを。
……こんなの、悲しみしか残らないじゃない。
アイリスは唇を噛んで、全ての力を注げるように短剣に力を込める。そして動きを止めているレイスの胸元に突き刺した。
「――ありがとう……」
はっきりと耳元で囁かれる言葉に、アイリスは一瞬だけ目を閉じる。
視界が滲んだのは何故だ。
「どうか……安らかに」
聞えているのかは分からない。
だが、言わずにはいられなかったのだ。望まぬ身となった彼らに祈りと謝罪の言葉を捧げたかった。
アイリスは力を込めた短剣をゆっくりと振り下ろした。




