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真紅の破壊者と黒の咎人  作者: 伊月ともや
安らぎの暇編
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感覚


 正直、アイリスには言っていない言葉がたくさんあった。

 それを彼女に直接言わないまま、胸の奥に秘めているのは気恥ずかしさと、アイリスの気持ちを尊重するためでもある。


「…………」


 風呂上りのクロイドは濡れた髪を布で軽く拭きながら息を吐いた。


 リッツ邸の隣に造られている温泉に入ることにすっかり慣れてしまった自分だが、これは恐らく教団でシャワーを浴びる際には物足りなく感じるようになっているだろう。


 皆は夕食後の好きな時間に温泉に入っているらしく、初日以降は誰かと一緒に温泉に入る時間が被る方が珍しくなっていた。


 なので、風呂上りのアイリスと現状のようにばったりと鉢合わせすることは今までなかったのである。


「あら、クロイドも今、お風呂上りなの? 静か過ぎて気付かなかったわ」


「……あぁ」


 温泉は露天となっているので空気が途切れていることはない。自分は鼻がいいので、実は彼女が同じ時間帯に温泉に入っていることは知っていた。


 しかし、あえて自分がいると伝えなかったのは色んなことを想像して、照れてしまったためである。

 もちろん、そのような雑念は先程、温泉に浸かっている間に全て振り払っている。


 乾ききっていないアイリスの髪から雫が頬へと落ちる。髪が長いと乾かすのが大変だろう。


「……顔が赤いようだけれど、のぼせたの?」


 立ち止まったアイリスが覗き込むようにこちらを見ている。


「……いや」


 アイリスから視線を逸らして、布を自分の頭へと被せて顔を隠した。



 露天風呂がある場所はリッツ邸の隣と言っても外にあるので、リッツ邸に戻るには少し歩かねばならない。


 その道を辿っていると少し前を歩いていたアイリスが今度は上を見上げていた。彼女の空色の瞳が映しているのはどうやら少し欠けた月のようだ。


「…………」


 アイリスがあの月を綺麗だと思えば、自分もそうだと思ってしまう。

 同じ瞳ではないが見たものを同じように感じたいと思ってしまうからだろう。


「……明後日にはもう、教団に戻らなければならないわね」


 ふっと息をもらすような声だった。その言葉にはどこか名残惜しいさが含まれていた。


「え? ……あぁ、そうだな」


 確かに課内旅行の日程として明後日までとなっている。明後日には教団に帰る汽車に乗らなければならないので、ここで休暇を楽しめるのは明日が最後だった。


 ふと気付くと、アイリスはリッツ邸の壁に沿うように設置されている長椅子に座っていた。

 夕涼みでもするつもりなのか、隣に座るようにと手で招く仕草をしている。


「……風呂上りに身体を冷やすと風邪をひくぞ」


「少しだけよ。……少しだけ、ね?」


 クロイドは小さく肩を竦めてからアイリスの隣へと腰掛けた。

 夜の風はそれほど冷たくはないが、長居しすぎない方がいいだろう。


 隣に座ると先程よりもアイリスの匂いを強く感じてしまい、再び顔を逸らす。


 ……こういう時、鼻が良いと困るな。


 アイリスの匂いは花のような甘さではなく、爽やかな春の風のような匂いだ。

 例え、任務中にその身が鉄錆のような匂いに纏われようとも、嗅ぎ分ける自信がある。


 だが、その事を本人に言うつもりはさらさらない。


「……向こうに戻っても暫くの間、学園は長期休暇だから、時間に遠慮することなく任務が出来るわね」


「さすがにこの前以上の任務は来ないだろう……」


 この休暇を得る前に、他の課の策略によって魔具調査課は大量の任務を抱えることとなったが、全員が一丸となって取り組んだことにより、無事に完遂出来たのは今でも信じられない。


 特に一番頑張っていたのがブレアだったが、あれは恐らく意地でも終わらせて他の課の課長を見返してやるという意思も含まれていたに違いない。


「ナシル先輩達もこの前の任務の量は異常だって言っていたわね」


 隣でアイリスが声を立てて笑った。


 自分は彼女の声を聞くのも好きだ。耳の奥に残るのは優しさと柔らかさだけだ。

 

 彼女の声を聞いていると、以前自分が聞いていた耳の奥に深く傷を残すような突き刺さる言葉が滲んでは薄れていく気がした。


「……任務の合間に、魔犬のことも色々と調べられるといいわね」


 ふっと彼女の声が低くなった。どうやら周りに誰かいないか注意しているようだ。


「そうだな……」


 昨日、キロルから渡されたマーレの手帳はまだ途中までしか読めていない。正確に言えば、途中までしか読むことが出来なかったのだ。


 マーレに対する感謝の想いでいっぱいになり、視界がぼやけて読むことが出来なくなってしまったからだ。


 ……続きを読まないとな。


 アイリスにあの手帳をあとで渡すと言っている以上、早く読まなければならないことは分かっている。 それでも手が震えて、視界が揺らいでしまうのだ。


 あまりアイリスには情けないところを見せたくないので、一緒に読もうと誘うことも出来ない。


「……私も自分の調べる力が及ばなくなってからはミレットに魔犬に関する情報が少しでも入ったら教えてもらうように頼んでいるの」


 情報課のミレットには分からないものがないと言われている程の情報通だ。

 ただし、知りたい情報の持ち主が調べられないように検索避けの結界を張っていると彼女の魔法の手が届かなくなってしまうらしい。


「それでミレットは何と……」


「魔犬に関することは全く出なかったらしいわ。ここ最近だと、私と――あなたが関わった件だけよ」


 アイリスの月を見る瞳がすっと細められた。その瞳は悲しげでもあるのに、奥には復讐に燃える炎が見えた気がした。


「もし、マーレさんの手帳に何か魔犬に近づける手がかりがあるなら、可能性が低くても私は辿って行くつもりよ」


「…………」


 アイリスは強い。それは剣術や体術といった意味ではなく、精神的な意味でだ。

 その先に絶望しかなくてもきっと彼女は顏を下に向けたりしない。


 確かに無鉄砲で頑固なところもあるが、自分はそれさえも羨ましいと思うし、そんな彼女が好きなのだ。



 頭にかけていた布を首へとかけ直し、クロイドは右側に座っているアイリスの頬へと右手を添える。


「えっ……」


 自分の突然の行動に驚いたのか、アイリスはその場で固まってしまった。

 月明かりの下でも分かる程にみるみると頬が紅潮していくのは見ていて少し面白いし、可愛いと思う。


 実はこうやって彼女に触れて赤くなる表情を見るのが最近の趣味の一つなのだが、我ながら悪趣味だと思う。


 まだ生乾きの髪がしっとりとしていて冷たくて気持ち良かった。その薄い金色の髪を指先で弄ぶようにそっと指に絡めていく。


「っ……」


 アイリスが短く息を引き攣るように吸った音が聞こえた。


「……アイリス」


 指先がアイリスの左耳へと触れた時、彼女は目を瞑って肩を大きく竦ませる。

 いつもは強気なアイリスだが、こうやって二人きりの時に見せる表情は自分だけしか知らない。


 他の誰かには教えたくはない、自分だけが知っている表情だ。


 ……可愛いな。


 出来れば言葉にしたいが、言えばきっと彼女は訴えるような瞳をこちらに向けてくるだろう。

 それでも我慢出来なかった言葉だけを彼女に向けて呟く。


「……好きだ」


「っ……」


 彼女に対する好意を言葉で囁くと、案の定アイリスは潤ませた瞳でこちらを睨んできた。


「どうして、今それを言うのよっ……」


「いつでも言えるわけじゃないからな」


 言葉というものは言える時に言っておかなければならない。あとから言えば良かったと後悔したくはないのだ。


「誰かいたらどうするの……」


「今のところ気配はない」


 耳も鼻もいいので、誰かがこちらに来ていれば、魔法で気配を消していない限り事前に察知する自信はあった。


 耳を澄ませば、アイリスの鼓動がはっきりと聞こえてくる。余程、緊張しているのか、それとも恥ずかしいのか。


「…………」


 アイリスの潤んだ瞳が瞑られる。どうやら、これが彼女にとっての精一杯らしい。


 許しを貰ったクロイドは小さく笑ってから、もう一度アイリスの左頬に右手を添える。


 月で照らされたアイリスの表情は先程よりも紅潮していた。

 顔を近づけて、目をすっと細める。


 薄桃色の柔らかい唇にそっと自分の唇を押し当てるとアイリスはすぐに肩を震わせた。

 自分よりも慣れていないらしく、手を添えている頬が次第に熱くなっていく。


 限界が来たのか、アイリスが自分の胸の中へと飛び込むように身体を押し付けて来た。


「……もう、無理……」


 かすれた声でそう呟いたのが聞き取れて、クロイドはつい小さく笑った。


 風呂上りだというのに、さらに身体が火照っているようでアイリスの身体が内側から熱を発しているように熱い。


「料理だけじゃなく、こっちも練習して慣れるしかないな」


「……どうして練習が必要なのよ」


「それはまぁ……。したいから、だな」


「っ……」


 再びアイリスの引き攣ったような呼吸が、自分の懐辺りから聞こえた。


「…………」


 両腕をアイリスの背中へと回し、包み込むように抱きしめる。これほど密着しているというのに何も考えない方が無理だろう。

 しかし、自分は順序を踏めない人間ではない。


 少しずつ、アイリスが自分の愛情表現に慣れてくれるまで長く付き合う覚悟は出来ている。




 アイリスを抱きしめたままの状態で、どれくらい時間が経っただろうか。彼女がこちらに預けてくる身体が少し重くなった気がした。


「アイリス?」


 しかし、返事はない。よく耳を澄ませてみれば、小さな寝息が聞こえてくる。どうやら、この状態のままで眠ってしまったらしい。

 寝顔を見せてくれるのは自分に心を許してくれているからだろう。


 仕方ないなと小さく息を吐いてから、クロイドはアイリスを両腕で包み込むように抱えて立ち上がった。


 アイリスはよく自分の体重を気にするような発言をしているが、むしろ軽すぎるくらいだ。


「……おやすみ、アイリス」


 許可を貰っていないので、今度は唇ではなく彼女の額へと軽く口付けする。今日の続きはまた今度にお預けのようだ。



 アイリスを部屋まで送り届けなければならないが、その道すがら誰にも会わないことを祈るばかりである。誰かに会えば、何があったのかと訊ねられるに決まっている。



 嗅覚と聴覚の感覚を出来るだけ研ぎ澄まし、足音を立てないように注意しながらアイリスの部屋を目指した。


   


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