胃袋
雲一つない青空の下でアイリスとクロイドは任されていた洗濯物を干していた。
長い干し竿に一列で並べられているのは白いシーツだ。10枚分のシーツを洗うのは大変だったが、干し切ってしまえば、壮観な眺めとなった。
シーツが風で揺らぐたびに、洗濯した生乾きの匂いが鼻を掠めていく。
「よしっ、これで洗濯物は終わりね」
腕まくりしていた袖を元に戻して、額にはねていた水飛沫を軽く手の甲で拭った。
空となった洗濯籠を持っているとひょいっとクロイドに取り上げられる。
「あとの片付けは俺がやっておくよ。そろそろ10時だし、お茶の時間にしないか?」
「あら、いいわね」
つまりは紅茶を淹れて欲しいらしく、アイリスは笑って同意した。
リッツ邸の中には誰もいないのは、書庫の整理をしているミカ以外の先輩達が外へと出掛けているからである。
セルディとロサリアは釣りに行っているし、ナシルとレイク、ユアンの三人は町へと買い出しに行っていた。
何せ10人分の食事を作るにはそれなりの材料が必要となる。しかも、暑い時期なので生ものなどはすぐに痛んでしまうことから食べる日に用意しなくてはならないのだ。
家の中へと戻ったアイリスはすっかり見慣れてしまった廊下を歩いて厨房へと入る。
厨房には一般人にも使える魔具である簡易式湯沸し瓶が置かれていたため、それを使わせてもらうことにした。
キロルは教団を引退してはいるが、まだ魔法使いとして在籍はしているらしく、手元にある魔具についてはちゃんと使用許可を得ているらしい。
簡易式湯沸し瓶に水を入れてから、沸騰するのを待っている間に、茶葉と人数分のカップを用意する。
「えっと、私とクロイドと……。ミカ先輩にブレアさんとキロルさん……」
指を折りながら今いる人数を数えていく。他の先輩達が帰って来るにはまだ早い時間だ。とりあえず、5人分を用意しておけば問題ないだろう。
そう考えているうちにお湯が沸いた。
ポットに茶葉を入れて、お湯を注いでいると重たい足音が聞こえ始める。
「――はぁ……。疲れた……」
厨房へと入って来たのは腕まくりをして、腰を叩いているブレアだった。
ブレアとキロルは温泉のお湯を一度抜いてから掃除をすると言っていたが、もう終わったらしい。
「全く人遣いが粗いよ、あの人は」
疲れ切った表情でブレアは肩をならしている。
「お疲れさまです。今、お茶を淹れているので、淹れたら居間に運びますね」
「おっ、そういえばもう10時か。いいねぇ。ついでに何か菓子でもあったかなぁ」
戸棚に何かないかと遠慮なく探しているブレアだが、人様の家に完全に溶け込んでいるように見えてアイリスは小さく笑った。
「つ、疲れた……。何でこの家、あんなに本が多いの……。全然、終わらないんだけど……」
ぐったりとした表情でミカが厨房の入口辺りでうずくまっている。どうやら書庫の整理から戻って来たらしい。
「まぁ、本を読むのは趣味の一つだからねぇ。お疲れ様、ミカ」
ミカの後ろからひょいっと顔を出したのはキロルだ。ブレアと同じことをしていたはずなのに、疲れた様子は全く見られない。
「おや、お茶を淹れてくれているのか」
紅茶の香りがキロルの方まで漂ったのか、鼻で何かを嗅ぐような仕草をしている。
「アイリスの淹れた紅茶は美味いぞ。……紅茶だけだけどな」
「もう、ブレアさんっ!」
からかうような口調のブレアにアイリスがきっと睨むと彼女は口元を押さえながら低く笑った。
そこへ片付けが終わったのかクロイドも厨房へと入って来た。
「何か手伝おうか?」
人数分の紅茶を淹れ終えたアイリスにクロイドが訊ねてくる。
「それじゃあ、このカップを運んでくれる?」
お盆の上に載せられた5つのカップを指さすと、彼は快く頷いてくれた。
疲れ切ったミカも休むべく、居間の椅子へと這いあがるように腰掛ける。
居間のテーブルの上へと置かれたお盆は、クロイドによって椅子に座っているブレア達の前へと置かれた。
「それではさっそく頂こう」
そういえば、最近は忙しくてあまり人に紅茶を淹れる機会がなかったので、腕が鈍っていないか心配だ。
アイリスはクロイドの隣へと座りつつ、紅茶を口へと含めるブレア達を眺めていた。
「……ん。美味いな」
にこりとキロルが笑う。
「使っているのはこっちの産地の茶葉だね。ちゃんと茶葉の持ち味が出ている淹れ方だ。さすがブレアが言うだけの腕前だな」
キロルの隣で飲んでいるミカも満足そうに頷いている。
どうやら、腕は落ちていなかったようだ。
「料理は全然駄目だけどな」
キロルの言葉に付け加えるようにブレアがそう言ったのでアイリスは反論する意味を込めて、小さく呟く。
「ブレアさんだって、料理出来ないじゃないですか」
「私はする必要がないだけだ」
「そう言って、私が以前教えようとしても頑なに包丁を持つことを拒んでいたからな……」
苦笑しながらキロルはそう言っているが、ブレアは余程料理をするのが嫌らしい。
「前に一回だけ作っただろう。……目玉焼きを」
「目玉焼きって……。ぶふぉ……」
ブレアの呟きにミカが盛大に噴き出した。
「それ、卵を焼くだけじゃん……」
「うるさいな……。そういうミカだって普段は料理なんてしないだろう。ナシルもだが」
「しないけど、必要に応じたら自分で食べられるものくらいは作れるよ。野菜炒めとか」
ミカの発言に反応したのはアイリスだった。
どうやら自分の料理の腕前は普段から筋肉を使うことを嫌っているミカよりも下らしい。それはそれで少し、空しくなる。
「ブレアが私に目玉焼きを作ったのは良いが、結局焦げていたからねぇ。あぁ、この子は根本的に料理を面倒臭がっているなと思ったよ」
過去にあった出来事を思い出すようにキロルは目を細めた。
「腹におさまれば、全部同じだろう。料理は美味しく作れる奴が作ればいい」
不貞腐れたようにブレアが歳に似合わず頬を膨らませたのでその場にいた全員が忍び笑いを起こす。
確かに、ブレアの意見には少しだけ同意する部分もあるが、自分としては作った料理を美味しいと言ってもらいたいのが本音である。
そう思いつつ、ちらりと隣のクロイドに視線を向けるとカップを傾ける最中だった彼と目が合った。
「ん?」
どうしたんだと訊ねるような視線にアイリスは小さく首を竦めてみせた。
「どうだ、ブレア。昼食だけでも試しに作ってみないか」
キロルの誘いに対して、ブレアは隠すことなく苦い表情をする。
「今日はパスタにするつもりだったんだ。私が下ごしらえをするから、君は麺を茹でるだけでいい」
「……白い沼を作っても良いなら茹でてもいい」
相当、嫌なのかブレアは眉を寄せながらキロルを睨んでいた。
「えぇ……。茹でるだけじゃん……」
「それなら、ミカがやればいいだろう」
「俺、厨房の台の高さと自分の身長が合ってないんだよねぇ。寸胴鍋を置いたら、俺の身長より高くなるかも」
ミカはごちそうさま、と言ってから椅子から飛び降りる。
「まだ、書庫の整理が少し残っているから、昼食出来たら呼んでねー。あと、アイリス、紅茶美味しかったよー」
手をひらひらさせながらミカは颯爽と居間から出て行く。
「逃げたな、あいつ……」
恨むような視線をミカの背中に送りつつ、ブレアもカップに入っていた残りの紅茶を飲みほした。
「私も昼前まで散歩に行ってくるから、あとは宜しく頼んだぞ、クロイド」
「え……」
手を軽く挙げてからブレアは足音を立てずに居間から出ていった。その速さと言ったら、ひと呼吸するよりも速かった。
つい逃げ出したくなるほど、料理はしたくないらしいブレアから昼食作りを任されたクロイドは軽く溜息を吐く。
「……キロルさん、俺にもパスタ生地の作り方、教えてもらえませんか」
「おや、興味あるのかい?」
「はい。茹でることはありますが、一から作ったことはないので……」
クロイドは一体どこまで料理を極めようとしているのだろうか。本当は自分も申し出たいところだが、今は野菜を切るという技術しか心得ていないので遠慮するしかない。
少々、羨ましいと思いつつもクロイドが作る昼食を楽しみにしている自分はすっかり、彼に胃袋を掴まれているようだと小さく苦笑するしかなかった。




