逢瀬
眠りについてから、それほど時間は経っていないのか、あまり眠った気がしないアイリスは身体をゆっくりと起こした。
薄暗い部屋は自分が借りているもので、カーテンの隙間から月明りが差し込んでいた。
窓は開けてあり、カーテンを引いているため夜風が柔らかくなって入ってきていたが、その風によって起きてしまったようだ。
ふっと気配がして視線を横へと向けると、自分の隣で安らかな寝息を立てているユアンがいた。
キロルが話した体験談を聞いて、怖がっていたユアンは一人になることを恐れて、自分と一緒に寝たいと言い出したことを思い出して、アイリスは息をもらすように小さく笑った。
結局、床で寝させて欲しいと言い張っていたユアンを説得して隣同士で寝ることになった。
先輩を床で寝させるなど出来るわけがないし、お互いに小柄であるのでベッドの上はそれほど窮屈には感じられなかった。
「…………」
ふわりとまたカーテンが風で揺れる。
ベッドから降りて、アイリスは窓の方へと歩いて行った。
大きな音を立てないように静かにカーテンの向こう側へと入ると、先程よりも傾いている月が目に入って来る。
ベランダに出て、欄干にそっと手を置いた時だった。
「――眠れないのか?」
囁くような穏やかな声にアイリスは身体の向きを右へと変えた。そこには同じようにベランダへと出てきているクロイドがいたのだ。
驚きつつもどこか嬉しさの方が先に込み上げてきて、アイリスは穏やかに苦笑した。
「……あなたこそ、こんな夜中にどうしたの」
お互いの部屋では先輩達が寝ているので、出来るだけ声量を抑えた。
「何となく、夜風にでも当たろうかと思って」
「涼しくて気持ち良いけれど、あまり身体を冷やすと風邪をひくわよ」
「それなら君だってそうだろう」
お互いにお互いの心配をしていることに気付いた二人は同時に小さく噴き出した。
まさか自分と同じように起きているとは思わなかったが、少しくらいは話しをしてもいいだろうか。
「……先輩達は怪談話を凄く怖がっていたけれど……。でも、死んだ人が魂となって会いに来るなら、あなたは会いたいって思う?」
自分でもどうしてこんな質問をしてしまうのかは分からない。ただ、何となく彼の答えが聞きたかったのだ。
自分でも性格が悪いと自覚している。それでも聞くのは彼の答えを聞いて安心したいからだ。
今の彼が選ぶのは過去かそれとも――。
「……確かに、前までの自分なら強く思っていただろうな。会って、詫びたいと。自分のせいで巻き込んでしまって申し訳ないと謝りたかった」
「…………」
「今もそう思うことに変わりはないけれど、でも今の自分には目の前にあるものの方が一番大事なんだ」
遠くの月を見ていたクロイドの瞳がこちらへと向けられる。黒い瞳は月の光で黒曜石のように光って見えた。
「それは……」
その大事なものを訊ねようとしたが、彼が言いたい大事なものが何なのかに気付いてしまい、視線を逸らす。
目の前にある大事なもの。
彼が言いたいのは恐らく、自分のことだ。
聞きたかった答え以上の答えが返って来たことに戸惑いを隠せないまま、アイリスは照れた顔を隠して欄干を強く握りしめた。
「それに母上もきっと自分が今、守りたいものを大事にしなさいと言ってくれると思うんだ。……あの人は俺の事を理解してくれていた人だったから」
細められた瞳の奥は母の面影を思い出しているのだろうか。
「……エリット王妃、だったわよね」
確か、クロイドの母の名前はそうだった気がする。
「そうだ。……元々は政務官の娘だったんだ。貴族でもなかったらしいから、父上と結婚した後も色々と苦労したと聞いている」
歴代の国王の中には貴族ではない娘を正妻にした王は多くはいなかったと聞いている。
反発もあっただろうに、自分の意思で妻を選んだクロイドの父の意思の堅さは愛する者を妻に迎えたいという愛情の表れではないだろうか。
「まぁ、今の時代、昔に比べれば色々と緩やかになったおかげもあるからな。……今は個人の意思で選び、生きていく世の中へと変化しつつある。どんなことでも初めてのことをするのは怖いし不安はあるかもしれないが――その先には想像していない世界が広がっていることもある」
まるで、何かの物語を語るような口調で彼はそう言った。
そして、左手をこちらへと向けてくる。
「俺の人生は人に整えられた道を歩くだけだったけれど、それでもこうやって自分が進むべき道を見つけられたのはとても幸運なことだと思うんだ」
「クロイド……」
アイリスも彼が伸ばした左手へと自分の右手を伸ばす。
指先がそっと撫でるように絡められていく。
「自分が想像していなかった世界を俺は――君と見たい。一緒に進んでいきたい」
絡められた指に少しだけ力が込められた。熱っぽい黒い瞳は自分を捉えたまま動くことはない。
「だから、過去を後悔しても、嘆いても……。きっと歩み続けられると思う。君が隣にいてくれるなら」
彼が選んだのは過去よりも未来。
自分の隣で歩み続ける、それが彼の答えだ。
その答えに安堵してしまう自分はやはり弱くてずるいのかもしれない。
「……ずっといるわよ。あなたが嫌だって言っても、私はずっと隣にいる。あなたが私を守りたいと思うように、私もあなたを守りたいと思っているもの」
物理的な意味だけではない。精神的な意味で自分は彼の心を守りたいと思う。
彼の心によって自分の心が支えられているように、包み込むような優しさで守りたいのだ。
「ありがとう、アイリス」
優しくその場を照らしている月のようにクロイドはそっと微笑んだ。
絡められていた指が微かな熱だけを残してそっと離れていく。
「そろそろ寝ないと。明日、起きられなくなってしまうからな」
「……そうね」
このささやかな逢瀬の時間はどうやら終わりらしい。
それほど長く話していた気はしないが、彼といると時間がゆっくりと流れる気がするので不思議なものだ。
誰も知らない、気付くことはない二人だけの逢瀬。そう例えるとどこか恋人らしくなってしまう気がして、心の奥がくすぐったかった。
「……おやすみ、アイリス」
「おやすみなさい……」
ベランダから部屋に入るまで、お互いの視線は重ねたままだ。
熱っぽさと少しの寂しさをその場に残したまま、二人は同時に部屋の中へと入る。
「…………」
カーテンの向こう側へと入ってしまえば、あとは眠るだけだ。
それなのにこの壁一枚の向こう側にいるクロイドのことばかり考えてしまって、逆に眠れなくなってしまう。
……明日、朝早くに起きられるかしら。
すっかり熱くなってしまった自分の両頬を手で添えるように隠しつつ、アイリスは深い溜息を吐きながら暫くの間、そこに座り込んでいた。




